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いったい

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

一体

 一体の梵語をエーカトパ〈ekatva〉とみれば、それは「一つのものであること」「同じ実体」という意味に解することができるであろう。しかし、この言葉は主として中国や日本で、独特の意味をもつ言葉として用いられる。
 たとえば、
① 身体の一部という意味で用いられ、手の一本、足の一本をさして一体という。この点では、あるもののもっている徳の一つの面を指して、一体という言葉が用いられるのである。中国で子夏、子游などを夫子の一体であるというのは、このような用例である。
② 同じ一つの身体という意味で理解され、「一つの関係」の意味に用いられる。たとえば親子一体、夫婦一体などである。「父母の子における、子の父母におけるは一体にして両分あるなり」などといわれる。
③ 「同じ体裁のもの」「一様」「同様」などの意味に用いられる。
④ 「一体同心」の意味で用いられ、頭と手足の如く、もともと一つであるから、心の思いも一つであるという意味である。
⑤ 俗語的には「一体全体」などといわれる。それは「もとをいえば」とか「そもそも」とかいう意味である。

 ところが、仏教で「一体無碍」というような場合には、二つのものが「とけあってお互いに障りがないこと」をいうので、全く一つにとけあっているすがたをいうのである。
 以上の種々の用例にみられるように、一体という言葉には、ある一つの独特な使用例があり、それが思想的に大切な意味をもっていることが注意される。すなわち、一般的な身体の一分とか一様とかいう用例は別として、「親子一体」とか「夫婦一体」とかという言葉についてである。

親子一体

 親子一体という場合、「父母の子における。子の父母における。一体にして両分なり」といわれるように、親と子とは第一に血縁であり、身体的にもともと一つである。それは一体にして両分であり、子は親の分身であるから、いくら人為的にその関係を切断しても、切断してしまうことはできない。これは明らかに本来的に一つであって、切りさくことはできないという一体の考えである。

夫婦一体

 夫婦一体といわれる場合の夫婦は、本来的に別のものであり、そこでは血縁的な一体はない。したがって、ここでいう一体とは全く別のものが一つであるという意味を示している。すなわち、この種の一体という言葉には独特の思想的立場がある。
 いうまでもなく、夫婦とは全く別体である男と女とが、結婚という社会的しきたりによって結びつき、生活を共にし、人類存続のための営みを行うものである。すなわち、肉体的精神的な深いつながりの中で、社会的承認のもとで生活を一つにしているものである。その点で、結婚は男女の合意により、社会の承認の下に成り立つものであるといえる。
 ここでは、夫婦とは男女共に一個の人格的存在として個別的であるから、この夫婦が一体であるという表現は、その底に異体同心という意味をもっているといえるであろう。英語に夫婦という言葉がなく「man(husband) and wife, a (married) couple」といわれるのは、これを示している。ところが、中国や日本での夫婦は本来的に一体であり、それは不二、不離の意味をもっているのである。不二とは二であり、異体であるが、それがそのまま二でないことを意味し、不離とは異であるまま一であるから、離すことのできないという意味である。
 ところで、二であるままで二でない、異であるままで不離ということは、二であるものが二であるままで一体となっているということであるか、本来的に一つであるものが二のすがたをとっているという意味か、いずれかであろう。しかし、この二つの考え方は、深く考えれば本来同じ考え方であろう。
 全く異なるものが一つになるとは論理的にはいえるかもしれないが、二つのものがとろけ合ったとしても、それはとろけ合っているだけで本来的には、やはり二つのものが、よりあっているだけであろう。とすれば二のままで二でないというのは、本来二でなく、本来的には一つであったものが、二のすがたをしていて、それを二であり別であると誤っている。だから、その誤りをとりのぞけば本来一であることが知られるから、二のすがたをしているままで、一体だといえる。これが不二、不離で一体という意味であろう。

一体の意義

 したがって、このような一体という言葉には、深い宗教的な意味がある。たとえば、夫婦一体という場合、夫と婦とは別々の男と女としての一人格である。それが一体であるということは、夫とは婦よりいい、婦とは夫よりいう名であるから、夫と婦とは別でなく相対として、根源的には一つであるといわねばならない。そこでは夫のみの生活も婦のみの生活もなく、あるのは夫婦の生活のみである。その立場に立って、別々の男女であるとしても、それは夫婦になるべき因縁をもっていた二人であるとの自覚を生み出すのである。そこに不二、不離がいわれるのである。
 このような一体感こそ、人間と人間をそれぞれ個としてのみとらえ、個が個となりうるのは、相互の関係の中においてのみであることを忘れている現代人にとって、反省されねばならないことであり、正しい人間の生きかたを指示しているといわねばならない。
 以上のような一体という思想は、実は仏教の根本的な立場をあらわすものであり、それを代表する教えは仏凡一体機法一体などといわれるものである。この中、前者は浄土真宗において信心利益についていわれるものであり、後者は浄土宗西山派や浄土真宗で他力義をあらわすためにいわれるものである。しかも、両者の一体の意味は自ら意味を異にすることはいうまでもない。

機法一体

 機法一体の場合は、六字の名号のうえに、すでに仏本来一体と成じたまいしことをいうのであり、一体のうえに機法二種のいわれがあるのである。しかもまた名号を聞信する一念に、その六字の名のいわれと相応するのであるから安心のうえに、また機と法との一体のいわれがある。しかし、いまの仏凡一体は、獲信の時に限るわけである。

仏凡一体

 仏凡一体とは「衆生貪瞋煩悩中、能生清浄願往生心」とあるように、聞信の一念に、凡夫の汚れた迷心の中に、如来からたまわる清浄願往生心が満入して、凡夫の貪瞋の煩悩を転じて、如来の仏智心と一体にならしめられることである。したがって、いままでは往生について、みきわめのつかなかつた自分が、如来の教えを聞いて無疑心となるままに、乗彼願力定得往生と往生についてみきわめのつく仏心となされてゆく、このすがたを仏凡一体というのである。

一体

 一体というのは、いままで迷心であった私の心を一念に転じて仏心と同じようになしたまうことをいうのである。衆生貪瞋煩悩の中へ、能生清浄願往生心である。そこで凡夫の迷心と仏の智心と一体というのであって、仏智と煩悩とが一つであるということではない。

機法一体の解釈

 機法一体ということについては、大体二通りに解釈することができるであろう。
① 機とは衆生をいい、法は阿弥陀仏をさす。この機と法とが、不二となったのが南無阿弥陀仏という六字であると、六字に生仏不二のいわれがあることを説くのである。
② 機とは衆生が弥陀如来をたのむ信心をいう。法とはたのむものを必ず助け救うという仏力をいう。この両者が一名号の中に一体に仕上げられているというのである。

生仏不二

 初めの生仏不二という意味は西山も真宗も説くが、とくに真宗は後の方に中心をおき、それは真宗に独特である。
 西山によれば機とは衆生の心をさし、法とは仏の心をいい、この衆生と仏との心の不離不二であることを機法一体というのであり、この生仏不二によつて往生を成ずるのであるから、他力であるというのである。証空の『安心抄』には

南無阿弥陀仏と称うる心を正因正定の業と名づく。この南無の心は我等が仏を頼む心なり。阿弥陀仏とは頼む心を彼の仏の摂し給う他力不思議の行本なり。されば我心を南無といい、彼の仏の我を摂し給うをば阿弥陀という。彼れ此れ一つになりあいたる姿が即ち仏にておわします所を南無阿弥陀仏と申すなり……中略……是を以て往生というは仏の御心と我心と一になりあいたるところを申すなり云云

と述べている。

真宗での機法一体

 このように機法一体に生仏不二の義のあることは、真宗においても許すところではあるが、真宗では第二の信心と仏力とが一名号に一体に仕上げられてあるという立場に重点をおくことは注意すべきであろう。真宗ではこの問題は重要な意味をもつもので先哲もいろいろとその真意の解明に努力しているが。『安心決定鈔』では法体成就の往生正覚不二について語り、蓮如の『御文章』では機上受得の機法一体を説いている。
 以上のように既に名号の上に機法一体と仕上ってあったというところに、他力本願の真意が表明されるのみならず、一体感が人間と人間との本当のつながりを深い因縁と感ずると共に育ててゆく、そこに豊かな人間生活がつくられる点、この一体という思想は今日非常に重要な意味をもっていると思われる。