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(慧遠)
(浄影寺の慧遠)
 
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中国に2人の有名な'''慧遠'''が居るので注意が必要
 
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[[334年]]-[[416年]]。中国、東晋代の僧。「廬山(ろざん)の慧遠」と呼ばれる。俗姓は賈氏。雁門楼煩(現在の山西省寧武)に生まれ、若くして儒家・道家の学問に通じた。<br>
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334-416年。中国、東晋代の僧。「廬山(ろざん)の慧遠」と呼ばれる。俗姓は賈氏。雁門楼煩(現在の山西省寧武)に生まれ、若くして儒家・道家の学問に通じた。<br>
[[354年]]、21歳のとき太行恒山で[[どうあん|道安]]と出会い、弟子となる。<br>
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354年、21歳のとき太行恒山で[[どうあん|道安]]と出会い、弟子となる。<br>
[[365年]]、道安に伴われて四百余人の同門の人びとと襄陽に移る。<br>
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365年、道安に伴われて四百余人の同門の人びとと襄陽に移る。<br>
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384年(or 386年)、道安と別れて、以後没するまで廬山の東林寺に住した。<br>
[[391年]]、僧伽提婆(そうぎゃだいば)を迎えて『[[あびどんしんろん|阿毘曇心論]]』4巻などの訳出を要請。<br>
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391年、僧伽提婆(そうぎゃだいば)を迎えて『[[あびどんしんろん|阿毘曇心論]]』4巻などの訳出を要請。<br>
[[401年]]以降、長安に来た[[くまらじゅう|鳩摩羅什]]と親交を結ぶ。<br>
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401年以降、長安に来た[[くまらじゅう|鳩摩羅什]]と親交を結ぶ。<br>
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402年、123人の同志とともに念仏の結社([[びゃくれんしゃ|白蓮社]])を結成する。<br>
[[404年]]、[[かんげん|桓玄]]に反論して『''沙門不敬王者論 ''(しゃもんふきょうおうじゃろん)』を著す。<br>
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404年、[[かんげん|桓玄]]に反論して『''沙門不敬王者論 ''(しゃもんふきょうおうじゃろん)』を著す。<br>
[[410年]]、鳩摩羅什のグループから追われた[[ぶっだばっだら|仏駄跋陀羅]]を迎え入れる。
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410年、鳩摩羅什のグループから追われた[[ぶっだばっだら|仏駄跋陀羅]]を迎え入れる。
  
彼を中心とするグループは、江南の仏教の中心として戒律を守り、中国仏教教団の基礎となった。また中国浄土教の祖とも見なされている。
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 彼を中心とするグループは、江南の仏教の中心として戒律を守り、中国仏教教団の基礎となった。また中国浄土教の祖とも見なされている。
  
 
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*念仏三昧詩集序
 
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*大乗大義章 3巻、(鳩摩羅什との手紙による問答)
 
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==[[じょうようじ|浄影寺]]の慧遠==
 
==[[じょうようじ|浄影寺]]の慧遠==
[[523年]]-[[592年]]。中国、北周-隋代の僧。「浄影寺(じょうようじ)慧遠」と呼ばれる。俗姓は李氏。[[とんこう|敦煌]]の人。<br>
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523-592年。中国、北周-隋代の僧。「浄影寺(じょうようじ)慧遠」と呼ばれる。俗姓は李氏。[[とんこう|敦煌]]の人。<br>
20歳の時、大統の[[ほうじょう|法上]]に[[ぐそくかい|具足戒]]を受け、その後、[[どんいん|曇隠]]に『[[しぶりつ|四分律]]』を学び、さらに法上に[[じろん|地論]]教学を学んで地論宗南道派の学問を大成した。<br>
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 20歳の時、大統の[[ほうじょう|法上]]に[[ぐそくかい|具足戒]]を受け、その後、[[どんいん|曇隠]]に『[[しぶんりつ|四分律]]』を学び、さらに法上に[[じろん|地論]]教学を学んで地論宗南道派の学問を大成した。<br>
北周の武帝が廃仏した際に、これを諫めたが、むなしく汲郡の西山に隠棲した。<br>
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 北周の武帝が廃仏した際に、これを諫めたが、むなしく汲郡の西山に隠棲した。<br>
晩年は浄影寺に住み、多くの経論の注釈書を著した。
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 晩年は浄影寺に住み、多くの経論の注釈書を著した。
  
 
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* [[だいじょうぎしょう|大乗義章]] 28巻
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* [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1851_] [[だいじょうぎしょう|大乗義章]] 28巻
* 維摩義記 8巻
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* [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1776_ 維摩義記] 8巻
* 大般涅槃経義記 10巻
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* [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1764_ 大般涅槃経義記] 10巻
* [[かんむりょうじゅきょうぎしょ|観無量寿経義疏]] 2巻
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* [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1749_] [[かんむりょうじゅきょうぎしょ|観無量寿経義疏]] 2巻
* 十地経論義記 7巻(うち4巻現存)
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* 十地経論義記 7巻(うち4巻現存)

2017年4月13日 (木) 16:41時点における最新版

慧苑

(673? - 743?)

 唐代、法蔵門下で、もっともすぐれた華厳学者。

著書

  • 続華厳経略疏刊定記 15巻

慧遠

えおん、Huî-yuăn
中国に2人の有名な慧遠が居るので注意が必要


廬山の慧遠

334-416年。中国、東晋代の僧。「廬山(ろざん)の慧遠」と呼ばれる。俗姓は賈氏。雁門楼煩(現在の山西省寧武)に生まれ、若くして儒家・道家の学問に通じた。
354年、21歳のとき太行恒山で道安と出会い、弟子となる。
365年、道安に伴われて四百余人の同門の人びとと襄陽に移る。
384年(or 386年)、道安と別れて、以後没するまで廬山の東林寺に住した。
391年、僧伽提婆(そうぎゃだいば)を迎えて『阿毘曇心論』4巻などの訳出を要請。
401年以降、長安に来た鳩摩羅什と親交を結ぶ。
402年、123人の同志とともに念仏の結社(白蓮社)を結成する。
404年、桓玄に反論して『沙門不敬王者論 (しゃもんふきょうおうじゃろん)』を著す。
410年、鳩摩羅什のグループから追われた仏駄跋陀羅を迎え入れる。

 彼を中心とするグループは、江南の仏教の中心として戒律を守り、中国仏教教団の基礎となった。また中国浄土教の祖とも見なされている。

著書

  • 沙門袒服論
  • 明報応論
  • 念仏三昧詩集序
  • 大乗大義章 3巻、(鳩摩羅什との手紙による問答)

浄影寺の慧遠

523-592年。中国、北周-隋代の僧。「浄影寺(じょうようじ)慧遠」と呼ばれる。俗姓は李氏。敦煌の人。
 20歳の時、大統の法上具足戒を受け、その後、曇隠に『四分律』を学び、さらに法上に地論教学を学んで地論宗南道派の学問を大成した。
 北周の武帝が廃仏した際に、これを諫めたが、むなしく汲郡の西山に隠棲した。
 晩年は浄影寺に住み、多くの経論の注釈書を著した。

著書