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極楽浄土への往生は、そこに生まれる[[ごう|業]]の力で化生すると言う。'''蓮華化生'''とは極楽浄土の蓮華の中に化生するという意味。 | 極楽浄土への往生は、そこに生まれる[[ごう|業]]の力で化生すると言う。'''蓮華化生'''とは極楽浄土の蓮華の中に化生するという意味。 | ||
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'''往生'''の本来の意味は、仏になり悟りを開くために、仏の国に往き生まれることである。よって、往生の本義は、ただ極楽浄土に往くことにあるのでなく、'''仏になる'''ことにある。 | '''往生'''の本来の意味は、仏になり悟りを開くために、仏の国に往き生まれることである。よって、往生の本義は、ただ極楽浄土に往くことにあるのでなく、'''仏になる'''ことにある。 | ||
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なぜ仏国土に往生することが、成仏の方法となるかというと、'''成仏'''には、'''仏の導き'''と'''仏による成仏への保証'''(授記)がなければならないからである。これらのない独自の修行は、[[あらかん|阿羅漢]]や[[びゃくしぶつ|辟支仏]]となることはできるが、それらになると二度と'''仏'''となることができない。<br> | なぜ仏国土に往生することが、成仏の方法となるかというと、'''成仏'''には、'''仏の導き'''と'''仏による成仏への保証'''(授記)がなければならないからである。これらのない独自の修行は、[[あらかん|阿羅漢]]や[[びゃくしぶつ|辟支仏]]となることはできるが、それらになると二度と'''仏'''となることができない。<br> | ||
[[ぶっきょう|仏教]]の'''さとり'''は'''無我の証得'''である。自己の空無なることをさとるためには、修行していることに「自らが」という立場があってはならない。自我意識が残る限り成仏は不可能とすれば、自我意識の払拭は自己自らでは不可能となる。ここに、成仏に'''逢仏'''、'''見仏'''を必要とする理由がある。 | [[ぶっきょう|仏教]]の'''さとり'''は'''無我の証得'''である。自己の空無なることをさとるためには、修行していることに「自らが」という立場があってはならない。自我意識が残る限り成仏は不可能とすれば、自我意識の払拭は自己自らでは不可能となる。ここに、成仏に'''逢仏'''、'''見仏'''を必要とする理由がある。 | ||
− | ==== | + | ====一般に「往生する」とは==== |
'''往生'''とは'''極楽往生'''、'''浄土往生'''といわれるように、人間が死んで'''仏の国'''に生まれるから、一般的に'''死後の往生'''の意味である。しかも、往生する世界は'''仏の世界'''であり、そこに生まれることは'''成仏'''することである。<br> | '''往生'''とは'''極楽往生'''、'''浄土往生'''といわれるように、人間が死んで'''仏の国'''に生まれるから、一般的に'''死後の往生'''の意味である。しかも、往生する世界は'''仏の世界'''であり、そこに生まれることは'''成仏'''することである。<br> | ||
そこで、'''往生'''とは'''仏'''になることと考えられ、'''往生'''は現実には'''死'''であり、さらに'''仏になる'''ことなので'''死んだら仏'''という考え方が一般化したと考えられる。<br> | そこで、'''往生'''とは'''仏'''になることと考えられ、'''往生'''は現実には'''死'''であり、さらに'''仏になる'''ことなので'''死んだら仏'''という考え方が一般化したと考えられる。<br> |
2009年1月3日 (土) 10:18時点における版
往生
往生とは、大乗仏教の中の成仏の方法論の一つである。現実の仏である釈迦牟尼世尊のいない現在、いかに仏の指導を得て、成仏の保証を得るかと考えたところから希求された。さまざまな浄土への往生があるが、ふつう阿弥陀仏の浄土への往生を言う。これは極楽往生といわれ、往とは極楽浄土にゆくこと、生とは、そこに化生(けしょう)することで、浄土への化生は蓮華化生という。
化生とは生きものの生まれ方を胎生・卵生・湿生・化生と四種に分けた中の一つ。
- 胎生 人間や獣のように母の胎(からだ)から生まれること
- 卵生 鳥類のように卵から生まれること
- 湿生 虫のように湿気の中から生まれるもの
- 化生 過去の業(ごう)の力で化成して生まれること。天人など
極楽浄土への往生は、そこに生まれる業の力で化生すると言う。蓮華化生とは極楽浄土の蓮華の中に化生するという意味。
本来の意義
往生の本来の意味は、仏になり悟りを開くために、仏の国に往き生まれることである。よって、往生の本義は、ただ極楽浄土に往くことにあるのでなく、仏になることにある。
必然性
なぜ仏国土に往生することが、成仏の方法となるかというと、成仏には、仏の導きと仏による成仏への保証(授記)がなければならないからである。これらのない独自の修行は、阿羅漢や辟支仏となることはできるが、それらになると二度と仏となることができない。
仏教のさとりは無我の証得である。自己の空無なることをさとるためには、修行していることに「自らが」という立場があってはならない。自我意識が残る限り成仏は不可能とすれば、自我意識の払拭は自己自らでは不可能となる。ここに、成仏に逢仏、見仏を必要とする理由がある。
一般に「往生する」とは
往生とは極楽往生、浄土往生といわれるように、人間が死んで仏の国に生まれるから、一般的に死後の往生の意味である。しかも、往生する世界は仏の世界であり、そこに生まれることは成仏することである。
そこで、往生とは仏になることと考えられ、往生は現実には死であり、さらに仏になることなので死んだら仏という考え方が一般化したと考えられる。
この往生の意味が、さらに俗化して「身のおきどころがなく、おいつめられた時」を往生するとなったと考えられる。
浄土真宗聖典註釈版の往生