おうじょう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
往生
往生とは、大乗仏教の中の成仏の方法論の一つである。現実の仏である釈迦牟尼世尊のいない現在、いかに仏の指導を得て、成仏の保証を得るかと考えたところから希求された。さまざまな浄土への往生があるが、ふつう阿弥陀仏の浄土への往生を言う。これは極楽往生といわれ、往とは極楽浄土にゆくこと、生とは、そこに化生(けしょう)することで、浄土への化生は蓮華化生という。
化生とは生きものの生まれ方を胎生・卵生・湿生・化生と四種に分けた中の一つ。
- 胎生 人間や獣のように母の胎(からだ)から生まれること
- 卵生 鳥類のように卵から生まれること
- 湿生 虫のように湿気の中から生まれるもの
- 化生 過去の業(ごう)の力で化成して生まれること。天人など
極楽浄土への往生は、そこに生まれる業の力で化生すると言う。蓮華化生とは極楽浄土の蓮華の中に化生するという意味。
本来の意義
往生の本来の意味は、仏になり悟りを開くために、仏の国に往き生まれることである。よって、往生の本義は、ただ極楽浄土に往くことにあるのでなく、仏になることにある。
必然性
なぜ仏国土に往生することが、成仏の方法となるかというと、成仏には、仏の導きと仏による成仏への保証(授記)がなければならないからである。これらのない独自の修行は、阿羅漢や辟支仏となることはできるが、それらになると二度と仏となることができない。
仏教のさとりは無我の証得である。自己の空無なることをさとるためには、修行していることに「自らが」という立場があってはならない。自我意識が残る限り成仏は不可能とすれば、自我意識の払拭は自己自らでは不可能となる。ここに、成仏に逢仏、見仏を必要とする理由がある。
一般に「往生する」とは
往生とは極楽往生、浄土往生といわれるように、人間が死んで仏の国に生まれるから、一般的に死後の往生の意味である。しかも、往生する世界は仏の世界であり、そこに生まれることは成仏することである。
そこで、往生とは仏になることと考えられ、往生は現実には死であり、さらに仏になることなので死んだら仏という考え方が一般化したと考えられる。
この往生の意味が、さらに俗化して「身のおきどころがなく、おいつめられた時」を往生するとなったと考えられる。
浄土真宗聖典註釈版の往生
極楽往生
極楽往生は『無量寿経』などの説に基づき阿弥陀仏の浄土に生まれることをいう。浄土教はこれを目的とする教えであり、他の大乗仏教でもさとりを開くための手段として説く。曇鸞は『往生論註』巻下に、浄土に生まれることは、生じたり滅んだりする迷いの世界を超え離れることであるから、無生之生であるとし、真宗などではこれに基づいて往生即成仏の説をたてる。
往生の方法には、念仏往生(仏の名を信じて称えることによって往生する)、諸行往生(念仏以外の善い行為をして往生する)、助念仏往生(念仏のたすけとして諸行を修めて往生する)などがあり、また聞名往生(仏の名を聞いて信じて往生する)ということもある。中国の善導や日本の源空は念仏往生を説き、源空の門下では、長西や弁長などの二類各生説(念仏でも諸行でも報土に往生できる)、証空や親鸞などの一類往生説(念仏によってのみ報土に往生できる)がある。浄土宗西山派では、即便往生(信仰を得たときさとりの身となる)・当得往生(命が終ってから浄土に生まれる)の二往生説があり、真宗では、即往生(仏から与えられた信心によって報土に生まれる〔化生〕)・便往生(自己の力をたのみとして化土に生まれる〔胎生〕)の二往生説、或いは即往生を難思議往生(第十八願他力念仏往生)・便往生を難思往生(第二十願自力念仏往生)・双樹林下往生(第十九願諸行往生)とする三往生説がある。
また真宗では、信心を得たときに往生ができることが定まる(往生一定)のを前念命終後念即生といい、即得往生という。またこれを不体失往生(穢れた身がそのままで平生のときに往生が定まる)といい、体失往生(肉体の死によって往生する)に対比させる。
なお源空の『西方指南鈔』巻下には、正念往生(正しく浄土を念じつつ往生する)・狂乱往生(苦にせまられて狂いつつ念仏して往生する)・無記往生(平生の信心でおのずから往生する)・意念往生(心に仏を念ずるだけで往生する)の四種往生説がある。
また一度死んで生まれかわってから往生するのを順次往生という(極楽を願生したものの伝記を往生伝という)。
兜率往生
兜率往生は『弥勒上生経』などの説に基づき、弥勒菩薩が現在する兜率天に生まれ、弥勒と共に五七億六千万年(五六億七千万年)の後にこの世界に生まれてさとりを開こうと願うもので、多く法相宗系統で行われた。