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かんぎじ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

歓喜地

pramuditā; pramuditā-bodhisattva-bhūmiḥ (S)

 菩薩の修行段階である十地の第一。初めて聖者となり、その喜びの起こる位。極喜地ともいう。

 歓喜を得る位ということ。菩薩がわずかにさとりの境地に到達して歓喜する位。菩薩の階位十地のうちの初地。カマラシーラ(Kamalasīla (S))の説明によると、

 菩薩はいまだ認識しなかったことを、この状態で認識するので大いに喜ぶ。そのゆえに(この地は)歓喜といわれるのである。

という。菩薩の階級に五十二位あるうち、第四十一位に当たる。〔観無量寿経 p.111〕

 菩薩一大阿僧祇劫の修行を経て、初めて断惑証理の一分を爲し大に歓喜する位である。ここから十地の間に二大阿僧祇劫を経て成佛する。

初に平等性を証し、而して諸仏の家を生ず。由って初めに覚悟を得て、名を歓喜地と為す。〔新訳仁王経 下〕
歓喜地とは、初めに聖を証す処。多く歓喜を生ずる也。〔観経天台疏〕
【左訓】「歓喜地は正定聚(しょうじょうじゅ)の位なり。身によろこぶを歓といふ、こころによろこぶを喜といふ。得べきものを得てんずとおもひてよろこぶを歓喜といふ」(異本)〔高僧和讃 p.578〕
菩薩五十二階中にあり、この位に入れば必ず成仏するの歓喜あり、他力信心には歓喜の伴ふ故信心の人を歓喜地の人と言う。〔正信偈〕
菩薩がこの位に至れば真如をさとるから、再び退転することなく必ず成仏できることが定まり、歓喜が生ずるので歓喜地という。浄土真宗では現生正定聚のことをいう。

と、註釈版巻末註にあるが、ちょっと怪しい解説になっている。

歓喜地と凡夫

 凡夫とは「凡庸なる士夫」の意味で、十分に四諦の道理を知らない人をいう。未だ悟りを得ていない者、すなわち部派仏教においては初果としての預流果を得ていない者、大乗仏教においては初地である歓喜地に至っていない者のこと。

「凡夫は(有)身見をもって性となす」〔『釈氏要覧』〕といわれて、我見にとらわれている人をいう。