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がらん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

伽藍

サンスクリット語のsaMghaaraama(सँघाराम)の音写で、「僧伽藍摩(そうぎゃらんま)」「僧伽藍」が略されて「伽藍」と言われた。漢訳の場合は「衆園(しゅおん)」「僧園(そうおん)」などと訳された例があるが、通常「伽藍」とのみ呼ばれる。
 僧侶が集まり修行する清浄な場所の意味であり、後には寺院また寺院の主要建物群を意味するようになった。

インドの伽藍

 インドでは、礼拝の対象を祀る仏塔と僧衆が居住する僧房とは、その発生起源を異にするが、後世になって僧院は仏塔を受容した。後期の僧院では、礼拝の対象(塔または仏像)を安置した祠堂(しどう)の他に、中央の中庭を囲んで房室を持つ方形の精舎(しょうじゃ)が流行した。精舎の付帯施設として、会堂・食堂・台所・貯蔵室・流し場・便所が設けられている。多数の修道僧の団体生活に必要な施設を整備すると同時に、個人の私生活を守り、瞑想に適するように整備された。

 有名な祇園精舎竹林精舎などは、文献上で名前は知られているが、実態は明らかではない。
 ラージギル(古名ラージャグリハ、raajagRha)では、釈迦時代の名医ジーバカが寄進したというマンゴー園の精舎の遺構とされるものが発掘された。これにはストゥーパ(仏塔)や祠堂(チャイティヤ堂)はもとより比丘の個室にあたるものもみられず、後世の僧院とはまったく様相を異にする。
 後期の代表例は現在のパハールプル(pahaarpur)の古名ソーマプラ(somapura)の僧院跡である。ここは、一辺約300mの正方形の囲壁の内側に177の僧房が並び、内庭の中央に四方に階段のある十字形の精舎(基壇は109m×96m)があった。基壇にはめこまれていた2800点の素焼粘土板の浮彫は、仏教尊像・ヒンドゥー教神像・人物・動物などを表していて、パーラ朝美術の貴重な資料である。

中国の伽藍

 中国で仏教寺院の伽藍について知られる最古の例は、『呉志』に、後漢時代末に笮融(さくゆう)が徐州に建てたと記されている「浮屠祠」(ふとし)である。これは金色の仏像をまつり、相輪(そうりん)に九重の銅槃(どうばん)を垂らした二重の楼閣を中心として、二層の回廊をめぐらし3千人を収容できたという。この楼閣は後世の「仏殿」と「塔」の両者の機能をあわせもっていた。
 初期の伽藍は、仏陀を供養する建物を中心に構成されていたが、仏舎利信仰が盛んになるにつれて、仏舎利をまつる仏塔と仏を安置する仏殿が独立分離して、仏塔を中心とする伽藍から、しだいに仏殿を中心とする伽藍へと変化したと考えられている。
 さらに、南北時代には貴族が住宅を喜捨して、そのまま寺院となったものが多く現れた。ここでは、仏殿と講堂が前後に配置され、仏塔を配置しない形態の伽藍が多かった。  また中国では、上記のような中国的な寺院建築だけでなく、インドの形態をまねた石窟寺院も造られた。雲岡敦煌龍門などの遺構がある。

日本の伽藍

 日本に仏教が伝わってきた6世紀中ごろには、寺院というものはなく、宮殿や邸宅の中に仏堂が建てられたのみであったと想像される。
 『日本書紀』によれば、崇峻1年(588年)に、百済から寺工や鑪盤博士、瓦博士等が来て最初の本格的伽藍、法興寺(飛鳥寺)を着工したと伝える。飛鳥寺の発掘によると、中央の仏塔を北・東・西の三金堂で囲む配置で、高句麗の形式を踏襲しており、中国の三合院配置に起源があると考えられる。
 斑鳩寺(若草伽藍)や四天王寺など7世紀初頭に発願された寺は、中軸線上に中門・塔・金堂・講堂を縦に順に並べ、回廊は中門から講堂を結び堂塔を囲んでいる。飛鳥時代に着工された寺院は東海から山陽にかけ40余寺ほどあり、大多数は奈良、大阪、京都にあり日本の伽藍の最初のものと考えられる。
 このころの伽藍で考えなくてはならないのは、1に仏塔への配慮であろう。仏塔が一つか、左右に二つか、それとも回廊の外かで、存在意味が異なる。それはそのまま釈迦の遺骨をどのように扱うかという問題になる。2に講堂の大きさである。金堂や仏殿は礼拝の目的のための建物であり、インド中国の祠堂と同様の意味を持つ。しかし、講堂は中国から伝来したもので、研究を目的とした建物であり、回廊上に配置されたのか、回廊外に配置されたのかで研究がどの程度重要視されたのかに関わってくる。
 平安時代に入ると、密教の山地伽藍では敷地の制約があり、奈良時代のような整然とした伽藍配置は見られなくなった。しかし、平地の伽藍では奈良時代の配置が踏襲された。
 また浄土教の発展に伴い、前面に広い池を設けた浄土曼荼羅図(浄土変)にみるような伽藍が多く建てられた。
 鎌倉時代になると、禅宗の伝来によって再び左右対称の伽藍配置が行われ、南大門を入ると三門が立ち、三門からの回廊は仏殿に達し、後ろに法堂・方丈を建て、回廊左右に庫院と僧堂を、三門斜前方に浴室と東司を設けるという中国風の配置が復活した。禅宗では塔を建てるけれども、伽藍中枢部を離れ、伽藍配置として有機的な関連は持たない。
 浄土宗浄土真宗日蓮宗寺院の中世における伽藍配置は固定の様式があるようには見られないが、近世になって、本堂と御影堂(ごえいどう)あるいは開山堂・大師堂が左右に並ぶ形を基本としている。