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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(帰依)
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きえ、zaraNa शरण(skt)
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<big>śaraṇa शरण</big> (S)
  
サンスクリット語の「zaraNa &#x0936;&#x0930;&#x0923;」は、保護所・避難所というである。中国語には「依帰」という言葉が『''[[しょけい|書経]]'' 』に出てくる。これは「頼りにする」という程度の意味である。<br>
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 サンスクリット語の「śaraṇa शरण」は、保護所・避難所というである。中国語には「依帰」という言葉が『''[[しょけい|書経]]'' 』に出てくる。これは「頼りにする」という程度の意味である。<br>
訳語としての'''帰依'''は,勝れたものに対して自己の身心を帰投して依伏信奉することをいうから、そのまま信仰という意味である。
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 訳語としての'''帰依'''は,勝れたものに対して自己の身心を帰投して依伏信奉することをいうから、そのまま信仰という意味である。
  
「自帰依自灯明、法帰依法灯明」(attadiipo attasaraNo dhammadiipo dhammasaraNo (pali))という場合の「帰依」は、まさに信仰という意味である。
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 「自帰依自灯明、法帰依法灯明」(attadīpo attasaraṇo dhammadīpo dhammasaraṇo (P))という場合の「帰依」は、まさに信仰という意味である。
  
仏法僧の[[さんぼう|三宝]]に帰依することを、[[さんきえ|三帰依]](さんきえ、tisarana (pali)、tri-zaraNa (skt))といい、これは仏道に入る儀式にも用いられ、しばしば音楽法要にも使われる。
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 仏法僧の[[さんぼう|三宝]]に帰依することを、[[さんきえ|三帰依]](さんきえ、tisarana (P)、tri-śaraṇa (S))といい、これは仏道に入る儀式にも用いられ、しばしば音楽法要にも使われる。
* 南無帰依仏 buddhaM saraNaM gacchaami बुधँ सरँ गच्छामि
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* 南無帰依仏 buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi बुधँ सरँ गच्छामि
* 南無帰依法 dhammaM saraNaM gacchaami धम्मँ सरँ गच्छामि
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* 南無帰依法 dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi धम्मँ सरँ गच्छामि
* 南無帰依僧 samghaM saraNaM gacchaami सम्घँ सरँ गच्छामि
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* 南無帰依僧 samghaṃ saraṇaṃ gacchāmi सम्घँ सरँ गच्छामि
  
[[くうかい|空海]]が「仏法の殊妙を聞かば,必ずよく帰依し信受すべし」と『''十住心論'' 』に述べいてるように、帰依することと信受することは同意である。
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 [[くうかい|空海]]が「仏法の殊妙を聞かば,必ずよく帰依し[[しんじゅ|信受]]すべし」と『[[じゅうじゅうしんろん|十住心論]]』に述べているように、'''帰依することと信受することは同意'''である。
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 〈唯識〉では、身・語・意の3業からなる稽首・敬礼・礼拝とは相違するとされる。<br>
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「仏法僧に帰依す」「唯だ如来のみ真の帰依する所なり」「無余依滅を復た帰依と名づく」
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:帰依者、帰敬依投之義、非此所明。若云伴談、或云伴題、此云稽首、亦云礼拝、亦云敬礼、訛名和南。  〔『義林章』4,T45-316b〕
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〈帰依〉とは「よりどころに帰入する」ことで、〈帰依する〉というときはsaraṇaの後に〈行く〉という動詞をつけて〈帰依所に行く〉と表現する。〈よりどころ〉(śaraṇa)はヴェーダ時代から保護所、避難所、家の意味で用いられ、そこに帰入すれば身の安全と心の安らぎが保証される。
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: インドラという帰依所に私は到達している。〔チャーンドーギヤ・ウパニシャッド II,22,3〕
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このインドラをはじめブラジャーパティ、死神、シヴァの妃ドゥルガーなどが帰依所となっている。<br>
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 仏典のなかにも仏法僧の[[さんぼう|三宝]](ratanattaya)以外の帰依所が出てくる例もある。
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: さあ我々は自分の身を寄せるところを探そう。〔パラマッタジョーティカー Ⅱ,129〕
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この場合は、現在仕えている王が瀕死の病に襲われたので、その王を見限って別の王を頼って就職しようという意味であり、世俗的に身の安全を保証してくれるもの、寄らぱ大樹の陰としてsaraṇaを用いている。<br>
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 世尊在世時には「世尊よ、あなたに」と帰依する目的を限定して帰依を願い誓う。
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: 皆あなたに帰依します。あなたは我々の無上の師です。〔スッタニパータ 179〕
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このように願い誓う。成道直後の世尊にはともなうサンガはない。そこでタプッサ、バッリカの二商人は
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: 世尊と法に帰依します。…今日より命が終わるまで帰依します。〔ヴィナヤ・ピタカ Ⅰ.4〕
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と二帰依を表明する。サンガが形成されてからは、<br>
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帰依仏(Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi),帰依法(Dhammaṃ~),帰依僧(Sańghaṃ~)の三帰依文が帰依の願いと誓いのことばとなる〔クッダカパータ〕。[[なんぽうぶっきょう|南方仏教]]ではあらゆる仏教行事の冒頭にこれを三度復調する。しかし実際に世尊のもとで帰依を表明するときはもっと生ま生ましい表現になる。
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: この私どもは尊師よ、世尊の帰依所にまいります。…私どもを(あなたの)信者にして下さい。〔ヴィナヤ・ピタカ Ⅰ.4〕。
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: 世尊がおいでになる所に合掌し三度自らほとばしり出ることばをのべた『かの世尊・阿羅漢・正等覚者に帰命したてまつる』と」(namo tassa Bhagavato arahato sammāsambuddhassa)〔''MN''.Ⅱ.140〕。
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 「南無」(namas,namo)は、頭を下げること、敬礼、帰命であり〈帰依〉と同義である。そして「自らほとばしり出ることばをのべた」(udānaṃ udānesi)とある通り、自らの身内に充満した信仰の熱情が凝縮した塊となり〈南無〉の一語となってほとばしり出る。<br>
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 上座仏教では[[しん|信]]の対象は世尊一仏である。[[だいじょうぶっきょう|大乗仏教]]では諸如来・仏。菩薩・法・諸神・祖師というように信の対象は多彩である。しかしその称名の頭に〈南無〉の一語を付けて信仰への情熱と帰依への願望を吐露することに変わりはない。<br>
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 なぜ人びとは帰依所へ行くのか。「これが私の帰依所だ、これが私の到彼岸だ」〔スッタニパータ〕と思い定めたからである。そこへ行けば必ず救われると確信したから行くのである。<br>
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 どのようにして行くのか。「それを浄らかに信じ尊重し」「そこに自らを傾倒し」「自らを(そこに)お任せして」〔パラマッタジョーティカーⅠ.16〕心と身体とをすべて投げだして帰依するのである。そのように浄信にもとづいた帰依を行なえば必ず救われる、彼岸に到達する、苦界(apāya)に落ちない、という〔''DN''.Ⅱ.255〕。

2022年8月16日 (火) 12:28時点における版

帰依

śaraṇa शरण (S)

 サンスクリット語の「śaraṇa शरण」は、保護所・避難所というである。中国語には「依帰」という言葉が『書経 』に出てくる。これは「頼りにする」という程度の意味である。
 訳語としての帰依は,勝れたものに対して自己の身心を帰投して依伏信奉することをいうから、そのまま信仰という意味である。

 「自帰依自灯明、法帰依法灯明」(attadīpo attasaraṇo dhammadīpo dhammasaraṇo (P))という場合の「帰依」は、まさに信仰という意味である。

 仏法僧の三宝に帰依することを、三帰依(さんきえ、tisarana (P)、tri-śaraṇa (S))といい、これは仏道に入る儀式にも用いられ、しばしば音楽法要にも使われる。

  • 南無帰依仏 buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi बुधँ सरँ गच्छामि
  • 南無帰依法 dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi धम्मँ सरँ गच्छामि
  • 南無帰依僧 samghaṃ saraṇaṃ gacchāmi सम्घँ सरँ गच्छामि

 空海が「仏法の殊妙を聞かば,必ずよく帰依し信受すべし」と『十住心論』に述べているように、帰依することと信受することは同意である。

 〈唯識〉では、身・語・意の3業からなる稽首・敬礼・礼拝とは相違するとされる。
「仏法僧に帰依す」「唯だ如来のみ真の帰依する所なり」「無余依滅を復た帰依と名づく」

帰依者、帰敬依投之義、非此所明。若云伴談、或云伴題、此云稽首、亦云礼拝、亦云敬礼、訛名和南。  〔『義林章』4,T45-316b〕

〈帰依〉とは「よりどころに帰入する」ことで、〈帰依する〉というときはsaraṇaの後に〈行く〉という動詞をつけて〈帰依所に行く〉と表現する。〈よりどころ〉(śaraṇa)はヴェーダ時代から保護所、避難所、家の意味で用いられ、そこに帰入すれば身の安全と心の安らぎが保証される。

 インドラという帰依所に私は到達している。〔チャーンドーギヤ・ウパニシャッド II,22,3〕

このインドラをはじめブラジャーパティ、死神、シヴァの妃ドゥルガーなどが帰依所となっている。
 仏典のなかにも仏法僧の三宝(ratanattaya)以外の帰依所が出てくる例もある。

 さあ我々は自分の身を寄せるところを探そう。〔パラマッタジョーティカー Ⅱ,129〕

この場合は、現在仕えている王が瀕死の病に襲われたので、その王を見限って別の王を頼って就職しようという意味であり、世俗的に身の安全を保証してくれるもの、寄らぱ大樹の陰としてsaraṇaを用いている。
 世尊在世時には「世尊よ、あなたに」と帰依する目的を限定して帰依を願い誓う。

 皆あなたに帰依します。あなたは我々の無上の師です。〔スッタニパータ 179〕

このように願い誓う。成道直後の世尊にはともなうサンガはない。そこでタプッサ、バッリカの二商人は

 世尊と法に帰依します。…今日より命が終わるまで帰依します。〔ヴィナヤ・ピタカ Ⅰ.4〕

と二帰依を表明する。サンガが形成されてからは、
帰依仏(Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi),帰依法(Dhammaṃ~),帰依僧(Sańghaṃ~)の三帰依文が帰依の願いと誓いのことばとなる〔クッダカパータ〕。南方仏教ではあらゆる仏教行事の冒頭にこれを三度復調する。しかし実際に世尊のもとで帰依を表明するときはもっと生ま生ましい表現になる。

 この私どもは尊師よ、世尊の帰依所にまいります。…私どもを(あなたの)信者にして下さい。〔ヴィナヤ・ピタカ Ⅰ.4〕。
 世尊がおいでになる所に合掌し三度自らほとばしり出ることばをのべた『かの世尊・阿羅漢・正等覚者に帰命したてまつる』と」(namo tassa Bhagavato arahato sammāsambuddhassa)〔MN.Ⅱ.140〕。

 「南無」(namas,namo)は、頭を下げること、敬礼、帰命であり〈帰依〉と同義である。そして「自らほとばしり出ることばをのべた」(udānaṃ udānesi)とある通り、自らの身内に充満した信仰の熱情が凝縮した塊となり〈南無〉の一語となってほとばしり出る。
 上座仏教ではの対象は世尊一仏である。大乗仏教では諸如来・仏。菩薩・法・諸神・祖師というように信の対象は多彩である。しかしその称名の頭に〈南無〉の一語を付けて信仰への情熱と帰依への願望を吐露することに変わりはない。
 なぜ人びとは帰依所へ行くのか。「これが私の帰依所だ、これが私の到彼岸だ」〔スッタニパータ〕と思い定めたからである。そこへ行けば必ず救われると確信したから行くのである。
 どのようにして行くのか。「それを浄らかに信じ尊重し」「そこに自らを傾倒し」「自らを(そこに)お任せして」〔パラマッタジョーティカーⅠ.16〕心と身体とをすべて投げだして帰依するのである。そのように浄信にもとづいた帰依を行なえば必ず救われる、彼岸に到達する、苦界(apāya)に落ちない、という〔DN.Ⅱ.255〕。