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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

duḥkha、दुःख (S)

 サンスクリット語「ドゥクハ」は「豆法」と音写され、「苦」と訳される。「ドゥクハ」の「ドゥ」(duḥ = dus)は、「悪い」という意味、「クハ」(kha)は「運命」「状態」の意味であるから、苦とは、もともと悪い状態、悪い運命というような意味をもっていたが、一般に身心を逼悩することをいうとされる。すなわち、精神と肉体とが悩みに逼迫されている状態である。このうち、精神の苦について、憂・愁・嫉妬などをあげている。また、肉体的な苦は種々の病などであるという。
 原意を考えると、モニエルの『梵英辞典』には「duḥ-stha」のプラークリット・フォームであろう、とされている。「duḥ」は難しいという意味であり、「stha」は「sthā」に由来するから、「留まっていることが難しい」「立っていることが難しい」「存在することが難しい」というような意味合いである。日本語にすると、「うまくいかない」「‥‥するのが難しい」「ほとんど‥‥でない」という意味合いだと理解するべきである。

簡単に言うならば「あてにならない」「たよりにならない」というほどの意味である。よって、釈尊のいう「苦」は、我々が言う「苦楽」の「苦」ではない。ここは注意しておくべきである。

インド

 身心にせまり(=逼迫)身心をなやます(=損悩)こと(=逼悩)。身心にかなう状況(=)・対象(=)に向かうときは楽を感じ、かなわないそれらに向かうときは苦を感ずる。
 ウパニシャッドの哲人ヤージュニャヴァルキヤは「それ(=アートマン)と異なっているものは苦である」といった(『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』III.7.3-23)という。釈尊時代の六師外道のうち、パクダは地・水・火・風・苦・楽・命の7要素を説きその第五に数える。ジャイナ教では苦行によって業を滅し、苦を滅し、受を滅し、一切の苦を滅尽すると説く。『ヨーガ・スートラ』の三昧品では心の障礙である散乱に苦・憂・四肢の動揺、荒き息づかいがともなうと説く。サーンキヤ(数論)哲学では、細身(lińga)の存続するかぎり天道・獣道・人道の三界は本質的に苦であり、『サーンキヤ・カーリカー』第1によると、「依内(=身心)・依外(=悪賊など)・依天(=天災など)の三苦に逼られる」という。 また、第11に示される変異(vyakta)と勝因(pradhāna)に共通する三徳(tri-guṇa)は、サットヴァが楽(sukhā)を、ラジャスが苦を、タマスが痴(moha)を本性とすると解せられる。
 ヴァイシェーシカ(勝論)哲学では六句義のうち第二の(guṇa)句義に十七種を数え、その第十四に苦(=不快感)をあげ「一つの実なるの徳があって、逼悩する自性あるもの」と解し、我の証相の一と見る。ニヤーヤ(正理)派では十六諦のうち、所量(prameya)として取り扱われる十二の認識対象の一とされる。

初期仏教

 初期仏教では、「無常なるもの(=変易の法, vipariṇāma-dhamma)は苦である(yad aniccaṃ taṃ dukkhaṃ)」、「苦なるものは無我である(yaṃ dukkhaṃ tad anattā)」(SN. XXII. 15,45,46,etc.)と述べて無常苦を説く。無常・苦とは不自由であるから我でないもの、すなわち無我であるというのであろう。四法印のうち、諸行無常の次に一切皆苦(duḥkhāḥ sarvasaṃ-skāraḥ)を説くのも、無常苦を示すためであろう。『清浄道論』では苦(dukkha)を嫌悪(du)と空虚(khatuccha)とに二分して、嫌悪されて常・楽・我・浄のない空虚な状態であると解する。最勝説法といわれる四諦説のうち、苦諦は人生の現実が無常・苦・空・無我の行相をもつことを明示する。集諦は苦の原因が渇愛にもとづく諸縁の集合にあることを示す。
 またアビダルマでは五蘊のうち、に苦・楽・捨(=不苦不楽)の三受を数えるが、苦受は身心に感受する苦である。五受根では身に感ずるのを苦受、心に感ずるのを憂受とする。
 二苦――自己の身心より起こる内苦、外から受ける悪賊・天災などの外苦。
 三苦――寒熱など苦縁より受けるのを苦苦、好ましいものの壊れるとき受けるのを壊苦、有為法の無常遷動より感ずるのを行苦という。
 四苦とは生・老・病・死、これに愛別離苦(愛するものと別れる苦)、怨憎会苦(憎むものと会う苦)、求不得苦(求めて得られない苦)、五陰盛苦(五蘊への執着より起こる苦)を加えて八苦という(四苦を一苦に数えて五苦ともいう)。
 また老・病・死を三種の身苦、貪・瞋・痴を三種の心苦ともいい、命終の苦を風刀苦という。ほかに『瑜伽論』巻44には百十苦を数える。

既存仏教

二苦

 このような精神的な苦と肉体的な苦とは、人間自身の内的な苦であるから、これを内苦といい、他人から迫害されたり、自然の力によって悩まされたりする風雨寒熱などの苦を外苦とよぶ場合もある。しかし、仏教では中心は、人間自身の苦として、たとえ外からうけるものであっても、それを内に感じてゆくところに、その立場をとるというべきであろう。

苦諦

 このように一切は苦なりという仏教の根本的立場が確立され、苦諦(くたい)とよばれる。苦諦とは「苦が諦である」ということで、それは苦であることが真理(サトャ、satya)であり、人間の生存そのものが苦であるという。その意味では、苦とは哲学的意味をもった苦である。
 しかし、四苦といわれる生苦・老苦・病苦・死苦、加えて八苦といわれる愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦をみても、実際には具体的な現実苦を示すことは注意すべきである。

三苦

 これは一般に後世、苦を説明する時にいわれる三苦にもよく示される。三苦とは、苦苦、壊苦(えく)、行苦の三つである。

  1. 苦苦(duḥkha-duḥkhatā)とは、「苦痛を苦とする状態」を意味する。「苦事の成るによって成立する苦」などと説明され、「寒熱飢渇によって生ずる苦」といわれるから、外的な、感覚的な苦である。このような苦が人間にとって第一段階の苦で、自然的、基礎的なものである。
  2. 壊苦(vipaṛnāma-duḥkhatā)とは「壊滅の苦の状態」である。「ビィパリナーマ」とは「悪い方へ変化する」という意味であるから、好もしくない状態をあらわすのである。「楽事の去るによって成ずる苦」とも説明される。「壊滅」とは、その点で「楽境壊滅」(らくきょうえめつ)の意味であるという。すなわち、人間にとって好もしいと感ずる対象が、次々とこわされてゆく時に感ずる苦である。この第二の苦の中に、人間が一般に感ずる苦は含まれるであろう。
  3. 行苦(saṃskāra-duḥkhatā)とは「生起の苦の状態」といわれる。「行」の意味は、「作られたもの」ということで、生存していること自体を指しているから、一切の存在が無常であることによって遷り流れてゆくところに感じとられる苦である。とくに、人間生存の無常という事実の中に感ずる苦であるから、生存苦、生きること自身が苦であることを示した。

 したがって、苦苦も壊苦も、この行苦を根本として起ってくるといえる。その意味で、行苦や五陰盛苦は、人間の根本的な苦を示す。仏教は、根本的には生きていること自体が苦であるという形而上学的な考え方をもととして、人間の「自分が」という我執こそ苦の根本であると言う。

 煩悩のこと

 主に唯識の術語。

ubhaya: tad-ubhaya (S)

 二つ。両方。

 能く自害を為し、能く他害を為し、能く倶害を為す。
 二つの因縁は倶に閾減なし。

yugapad: yaugapadyam (S)

 同時に

 諸行と自在とは倶に本有なるべし

saha: saha-kāla: samāna-kāla: samavadhāna (S)

 一緒に。教導で。同時に。

 異熟果は因と倶なるべし
 受の生ずること、触の後なるや、倶なるや