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ごじはっきょう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

五時八教

天台宗教判

 「五時」とは、華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五時で、佛一代の教を判釈し、化法の四教・化儀の四教の八教判と合せて「五時八教」と呼ぶ。
 この「五時八教」は、湛然の著作には見られるが、法華三大部には見あたらないため、六祖湛然の頃に成立したものであり、智顗潅頂の時代にはまだ成立していなかったと見られる。
 「五時八教」という用語は、三大部には見あたらないが、この言葉で呼びうる思想・教理はすでに天台にあったと解釈する説もある。おそらくこのようにまとめうる思想は、智顗にあったが、まだ五時八教の用語を用いるまでには至らなかったと見るべきであろう。

五時

第一華厳時

 仏が成道した般初の三七(21)日間華厳経を説いた時期をいう。その時説いた教えの内容は、正しくは円教であるが、あわせて別教を説いている。この説法の対象は大菩薩衆である別教と円教の優れた能力の者であって、仏の教化の意味からすると自己自身のさとった仏慧を擬して適否を試みたものであるから擬宜鍵の時とし、教えの順序でいえば牛から搾ったままの乳味に当たる。
 華厳経には前分と後分の区別があって、前分は三七日の時の説法で声聞はいないが、後分は入法界品のように舎利弗などの大声聞などがいる。しかしこの時の説法は程度があまりにも高くて、声聞は化益に預ることができなかった。

第二鹿苑時

 華厳経を説いて後の12年間に、十六大国で小乗の四阿含経を説いた時期をいう。この時期における仏の最初の説法の場所が鹿野苑であったから鹿苑時といい、説いた経名をとって阿含時ともいう。説いた教法は今度は程度が極めて低く、小乗即ち三蔵教のみであり、仏の教化の意味からは浅薄な能力の者を対象として誘い導いたものであるから、誘引の時とし、順序の上では乳の次の段階である酪味に譬えられる。

第三方等時

 鹿苑時の後8年間に維摩経・思益経・勝鬘経などの大乗を説いた時期をいう。説いた教法は蔵・通・別・円の4教を並説し、第二時で得た小乗の浅いさとりを仏の深いさとりと同一視している偏見を打破した。その中では折小歎大(小乗はつまらないと非難し、大乗はよいとほめたたえる)・弾偏褒円(偏教をけなし、円教をほめる)の意味が説かれ、恥小尊大(つまらない小乗を恥じて、尊い大乗をしたう)の思いを起こさせる。仏の教化の意味からすれば弾訶(小乗はつまらないとしかりつける)の時とし、順序の上では酪の次の段階である生蘇味に喰えられる。
 方等というのは大乗経の通名であるから、大乗の初めであるこの時を方等時と名づけたのである。

第四般若時

 方等時の後22年間に諸部の般若経を説いた時期をいう。経名によって時の名が立てられている。説いた教法は通・別・円の3教を内容としており、仏の教化の意味からすれば大乗・小乗を別のものとする偏執を淘汰(あらいきよめる)するために諸法はみな空で大乗・小乗は一味であると融合させるから淘汰の時とし、順序の上では生蘇の次の段階である熟蘇味に喩えられる。この時期においては須菩提などに般若を説かせ、大乗にあこがれている二乗をさらに大乗の中に進展させて空に入らせるのであるから、これを般若の転教といい、法の上で区別をなくするから法開会ともいう。このうち、通教の消極的な空を説く共般若(三乗共に学ぶ般若)と一切皆空の積極的不空中道を説く別円二教の不共般若(菩薩のみが学ぶ般若)とがある。

第五法華涅槃時

 教えを受ける者の能力が最も進んだために、正しく真実の仏知見にさとり入らせる時であって、仏が最後の8年間に説いた法華経と、涅槃に入ろうとして一日一夜に説いた涅槃経とが、この時期に当たる。説いた教法は純粋に円満な円教の教えで、それまでの前四時の浅い方便の教えを開会(方便をうちあけて真実と一にする)して真実を顕す開顕円であり、仏の教化の意味からは理論的な法開会のみでなく、実際にすべてさとりに入らせる人開会であって、順序の上からは熟酥に次ぐ段階である醍醐味に喩えられる。
 法華経と涅槃経とは結局一(仏)乗を顕場するのであるが、法華経は前番五味のうちの後教後味といわれて、華厳時以後、法華経までの二乗を開会して仏知見に入らせる大目的を成就するもので(大収教)、涅槃経は法華経でもれた能力の者に対して蔵・通・別・円の4教を追説追泯(追いかけて説き、追いかけて否定し、円教を顕す)して仏性常住 扶律談常を述べて教化し成仏させるから、後番五味のうちの後教後味、後教涅槃経という(捃拾教、捃はひろいとるの意)。

八教

 八教とは化儀の四教(仏が衆生教化にあたって用いた形式・儀則で、薬の調合法のようなものに喩えられる)と化法の四教(仏が衆生教化にあたって用いた教法の内容で、薬の成分のようなものに喩えられる)をいう。

化儀の四教

  1. 頓教とは、ただちに初めから仏自身のさとりを衆生に教える説き方で華厳経がこれにあたる。
  2. 漸教とは内容の浅い教えから深い教えへと漸々に進んで衆生を教化するのをいう。阿含(初)・方等(中了般若(末)の三時の説がこれにあたる。
  3. 秘密教とは衆生の力が別々である場合に、仏がこれらの者に相互には知らせないままに、ひそかにそれぞれに異なった利益を与える説き方をいう。
  4. 不定教とは、種々の能力の者が同一の座席につらなっていても、体得される教法が各自の力に応じて異なっていて一定でないような説き方をいう。
     秘密教と不定教とは同聴異聞(同じ座につらなっていても聞き方がちがう)の点は共通しているが、前者は相互に利益の異なるのを知らない場合(人法倶不知)であり、後者は相互に利益の異なるのを知っている場合(人知法不知)である。ともに体得される教法が一定していないから不定教であって、正確にいえば前者は秘密不定教、後者は顕露不定教といわれるべきものである。
     これに対し頓漸二教は公開された教法であるところから顕露定教ともいう。

化法の四教

  1. 三蔵教は略して蔵教ともいい、小乗教のことである。三乗の人のために四阿含経によって但空(空の一面のみを知って、同時に不空の反面があることを知らない)の道理が明かされ、析空観(分析的に空を観ずる。拙度観ともいう)によって無余涅槃に入らせる教えである。この教えの菩薩は見思の惑を制伏して、煩悩を断ちつくさず、衆生教化のために三阿僧祇劫の長い期間にわたってさとりに至る因行を実践するから、これを伏惑行因という。
  2. 通教の通とは、通同と通入と共通との意味。声聞・縁覚・菩薩の三乗が通じて共に受ける大乗初門の教えをいう(共通)。即ち、如幻即空(すべてのものは因縁によって成立しており幻のように空である)の道理によって体空観(全体としてそのままが本来空であると観ずる。巧度観ともいう)を観じてゆく教えである。この教えの菩薩のうち、劣った菩薩はこの教理を浅く理解して前の蔵教の者と同じ果をさとり(通同)、勝れた菩薩はこの教えの中からその奥に含まれている中道の妙理をさとって別・円二教に入ってゆくのである(通入)。このように通教のものが別教へ転進することを別接通(別入通)といい、通教のものが円教へ転進することを円接通(円入通)という。
     また、通教の菩薩が別教の教えに習いなれるために、別教の修行の名目をもって通教の位次を現すのを、名別義通といっている。
  3. 別教の別とは、不共と歴別の意味。即ち、二乗と共通せず、ただ菩薩のためのみの教えで(不共)、その点前後の三教と別異しているが、またすべてのものを差別の面よりながめるのである(歴別)。故に空仮中の三諦を次第に観じて中道の理をさとるのであるが、その中道は空や仮と別なものとみるからこれを但中(空・仮とは独立した中)の理といい、その観法は次第の三観であり、また隔歴の三観ともいわれる。別教の菩薩も、初地に至って後は中道の理をさとり、円教の人と同じになるが、初地以前に、但中の理からその中に含まれている不但中(空.仮に離れない中)の理をさとって十住から十廻向の間で別教から円教へ転進する者がある。これを円接別(円入別)といい、前の別接通、円接通および今の円接別を合わせて三被接という。
     被接とは要するに、理を観じている間にそのうちに含まれた深い意味を悟って、より高次の教えに接続され転進することである。
     以上の3教は、理論上ではそれぞれに仏果に至る者があるはずであるが、実際上は因中被接されて三蔵教の断惑の位、通教の八地以上、別教の初地以上には至るものがない。故にこれを有教無人(教えのみあってさとる人がない)、または果頭無人(仏果に至るものがない)という。
  4. 円教の円とは、片寄らずすべてのものが互いにとけあって完備しているという意味。即ち迷いもさとりも本質的には区別がないというのがまことの道理であって、それが仏のさとりであるから、この円教は仏のさとりのままを説いた教えであることになる。空仮中の三諦の理は、一のうちに互いに他の二を含むと見るから、この中道の理を不但中の理といい、円教の菩薩は空仮中の三観を一心に観ずるので、この三観を一心三観といい、また不次第の三観、円融三観などともいう。以上の四教のうち、蔵通の二教は教証倶権(教も証も方便であって真実ではない)、別教は教権証実(教は方便であるが証は真実)、円教は教証倶実(教も証もともに真実)である。

 またこれを五時に対配すると、第一時華厳時は円教にかねて別教を説くから兼。第二時鹿苑時はただ三蔵教のみを説くから但。第三時方等時は四教を対説している(ならべて対立させて説く)から対。第四時般若時は通別二教をさしはさんで円教を説くから帯。第五時法華涅槃時は、法華は純円教、涅槃は追説では四教を並べ説き、追泯では円教となるのである。
 また法華の円(今円)は、爾前(法華経が説かれる以前)の四時の円(昔円)と教えそのものは同一であっても(今円昔円円体無殊)、作用に優劣があるから、今円は純円独妙の開顕円とし、前四時の昔円に越え勝れているとする。このことから、法華経は四教の外にあって超八醍醐の最勝な教え(化儀化法の八教を超えるすぐれた醍醐味のような最上の教え)といわれるのである。