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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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三惑

天台宗では、成仏障礙となるものとして、三種の煩悩を立てる。

見思惑

 見惑思惑。思惑は玄奘以後の新訳では修惑と訳す。しかし天台宗は玄奘以前の開宗であるので、旧訳の訳語を使う。故に見思の惑という。見惑は迷理の惑で、縁起の理を知らないことより起る我見辺見などの五見、並びにそれに伴う貪瞋癡慢疑などである。この惑は四諦の理を洞察することにより断ぜられる。これは三界に八十八使がある。思惑は迷事の惑で、心に習慣に染みついている煩悩である。これは長期間の修行て断ずる。三界九地に八十一品がある。以上は三界内の惑であるから、蔵教・通教の修行者も同じく断ずる。

塵沙惑

 これは事物に対する無知のこと。世間の事物は無数にあり、それに対して無知があるので、これを塵沙の惑という。塵沙の惑は自己の修行のためには障害とならない。このため二乗はこれを断じない。しかし他を教化するためには、塵沙の惑が障害となる。そのために菩薩はこれを断じなければならない。塵沙の惑には界内の塵沙と界外の塵沙とがある。『倶舎論』のいう不染汚無知は界内の塵沙である。極楽浄土の水鳥樹林などの様子がわからないのは界外の塵沙である。法相宗では、煩悩障所知障を立てるが、煩悩障は見思の惑にあたり、所知障を分けて、天台宗では、塵沙の惑と無明の惑とする。そして見思の惑は観で断じ、塵沙の惑は説で断じ、無明の惑は中道説で断ずるという。

無明惑

 『倶舎論』には無明に、相応無明と不共無明とを分ける。相応無明は、他の煩悩と相応する無明であって、これは見思の惑に含まれる。不共無明は他の煩悩を断じても、なお残る無明である。ここに見思の惑と塵沙の惑を断じても、なお残る無明の惑というのは、この不共無明と同じものと見てよい。