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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2018年8月18日 (土) 12:49時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (四諦)

四諦

catvāri āryasatyāni、चत्वारि आर्यसत्यानि (S)

 四聖諦ともいわれる。聖諦とはサンスクリット語で「神聖なる真理」という意味である。パーリ語では「アリヤ・サッチャーニ」(ariya-saccāni)といわれる。
 釈迦成道の後、鹿野苑(ベナレス)において、初めて五比丘のために法を説かれた(初転法輪)。この時、釈迦はこの四諦を説かれたといわれ、四諦は仏陀の根本教説であるといえる。
 四つの真理とは、人生は苦であるという真理と、その苦の原因は人生の無常と人間の執着にあるという真理と、この苦を滅した境地が悟りであるという真理と、その悟りに到達する方法は八正道であるという真理との四であり、これを順次に苦諦・集諦(じったい)・滅諦・道諦と呼ぶ。この四諦は仏陀が人間の苦を救うために説かれた教えであり、あたかも医者が、患者の病気の何であるかをよく知り、その病源を正しく把握し、それを治癒させ、さらに病気を再発しないように正しく導くようなものだ、と言われている。

苦諦(duḥkha-āryasatya)

 苦諦とは人生の厳かな真相を示す。「人生がである」ということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿である。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。四苦とは生、老、病、死の四つである。これに、愛し合うものが別れてゆかねばならない「愛別離苦」、憎み合うものが一緒に生活しなければならない「怨憎会苦」(おんぞうえく)、求めても得られない「求不得苦」(ぐふとっく)、最後に人間生存自身の苦を示す「五陰盛苦」(ごおんじょうく)を加えて「八苦」と言う。

集諦(duḥkha-samudaya-āryasatya)

 集諦とは「苦の源」をいうので、苦集諦といわれる。「集」とは招き集める意味で、苦を招きあつめるものが煩悩であるというのである。
 この集諦の原語は「サムダヤ」(samudaya)であり、この語は一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「つみかさねる」などを意味し、さらに「結合する」ことなどを意味する。その点、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。
 苦集諦とは「duḥkha-samudaya-satya」とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。そこで、具体的には貪欲瞋恚愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛をいう。これらは欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。

滅諦(nirodha-āryasatya)

 滅諦とは、苦滅諦といわれ、苦のなくなった涅槃のことを言い、いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり、煩悩の火の吹き消された世界をいう。

道諦(mārga-āryasatya)

 道諦とは苦滅道諦で、苦を滅した涅槃を実現する方法をいう。これに八正道が説示される。

初めの苦、集の二諦は、明らかに迷の現実とその原因を示したものであり、後の二諦は悟りの結果とその方法を示したものである。
釈迦は初転法輪において、まず迷いの現実が苦であることと、その苦は克服しうるものであることを明らかにした。しかも、苦は単に苦として外にあるのでなく、我々がそれをどう受け取るのかで変わってくることを説いて、「煩悩」こそがすべてを苦と受け取らせる原因であることを明らかにした。したがって、この煩悩を正しく処理すれば、苦に悩まされない境地をうる。その道こそ、いっさいの自己愛を捨て、他に同化することにあるので、その根本は自己の本姿に徹することである。つまり、本来、執着すべきでない自己に執着することこそ、苦の原因である。この「苦」を滅して涅槃の世界に入る方法こそ「八正道」であり、聖なる道を実現するから「八聖道」ともいわれる。