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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(性起)
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 『[[けごんきょう|華厳経]]』の根幹にある思想であり、[[てんだいしゅう|天台宗]]の[[しょうぐ|性具]]説に対するものであるとされる。<br>
 
 『[[けごんきょう|華厳経]]』の根幹にある思想であり、[[てんだいしゅう|天台宗]]の[[しょうぐ|性具]]説に対するものであるとされる。<br>
 ''性起''の「性」は、人間が本質的に備えている心性・[[ぶっしょう|仏性]]であり、あるべき理想態としての[[じしょうしょうじょうしん|自性清浄心]]のことである。「起」とは、「顕現」「挙起」「発起」の意味であり、仏性の現起することをいう。万物は普遍的なほとけ(如来)のいのちの表現活動であるとするのが「性起」であり、華厳の見方であり、個物は普遍的なほとけのいのちを本具でるとみるのが天台の見方である。
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 ''性起''の「性」は、人間が本質的に備えている心性・[[ぶっしょう|仏性]]であり、あるべき理想態としての[[じしょうしょうじょうしん|自性清浄心]]のことである。「起」とは、「顕現」「挙起」「発起」の意味であり、仏性の現起することをいう。万物は普遍的なほとけ(如来)のいのちの表現活動であるとするのが「性起」であり、華厳の見方であり、個物は普遍的なほとけのいのちを本具でるとみるのが天台の見方である。<br>
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 もっと端的に言うなら、「性起」は現象論を説き、「性具」は人間の煩悩論を説いている。
  
 
  性とは体なり、起とは心地に現在するのみ    〔[[ちごん|智儼]]:華厳経捜玄記〕
 
  性とは体なり、起とは心地に現在するのみ    〔[[ちごん|智儼]]:華厳経捜玄記〕
  
 注意したいのは、長い間修行を続けて、しだいに煩悩をなくして、ついに清らかな仏の心に到達する(性具)、というのではない。<br>
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 注意したいのは、<font color=red>長い間修行を続けて、しだいに煩悩をなくして、ついに清らかな仏の心に到達する(性具)、というのではない。'''本来、わたしたちは成仏しているのだ'''、というのが性起である。</font>
 '''本来、わたしたちは成仏しているのだ'''、というのが性起である。
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  不改を性と名づけ、顕用を起と称する。それはすなわち仏陀の性起である。また真理を如と名づけ、性と名づけ、顕用を起と名づけ、来と名づける。それは如来を性起とすることである。    〔法蔵:華厳経探玄記〕
 
  不改を性と名づけ、顕用を起と称する。それはすなわち仏陀の性起である。また真理を如と名づけ、性と名づけ、顕用を起と名づけ、来と名づける。それは如来を性起とすることである。    〔法蔵:華厳経探玄記〕
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から発展した。衆生は本来、如来の相を具えている、ということであり、本来的自己とは、如来のいのちなのである、ということ。我々の現実の心が煩悩に覆われ、自我を主張し、苦悩にあえいでいる、このような我々の心そのものが、如来のいのちの現われである、とするのが性起の思想である。
 
から発展した。衆生は本来、如来の相を具えている、ということであり、本来的自己とは、如来のいのちなのである、ということ。我々の現実の心が煩悩に覆われ、自我を主張し、苦悩にあえいでいる、このような我々の心そのものが、如来のいのちの現われである、とするのが性起の思想である。
  
  この生死はいなはち仏の御いのちなり。これを厭ひ捨てんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり    〔[[どうげん|道元]]:[[しょうぼうげんぞう|正法眼蔵]]〕
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  この生死はすなはち仏の御いのちなり。これを厭ひ捨てんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり    〔[[どうげん|道元]]:[[しょうぼうげんぞう|正法眼蔵]]〕

2019年1月11日 (金) 23:03時点における版

性起

 悟った仏果の立場から現象を説く華厳宗の教義。あらゆる現象はその真実の本性に順って顕れ、人々の性質能力に応じてそのはたらきを起こすことを言う。凡夫の立場から現象を説くと、縁起となる。

 智儼は悟りの本体が衆生の心中に本来的に現在すると解する。
 法蔵は不変の仏の本性から教化のはたらきを現わすこと、真理そのものがはたらきを起こすことの2つの意味を出すが、ものみな固有の自性がなく縁に随って起る点からは縁起であるが、自性のないものに本来具えた真実のはたらきからは性起とする。

 天台宗性具説は仏界のさとりも他の世界の迷いと同列に見るのに対して、唯一の理の本性を中心に万象の縁起を説き、迷いの世界を仏の世界に引き上げて説こうとするものである。


 『華厳経』の根幹にある思想であり、天台宗性具説に対するものであるとされる。
 性起の「性」は、人間が本質的に備えている心性・仏性であり、あるべき理想態としての自性清浄心のことである。「起」とは、「顕現」「挙起」「発起」の意味であり、仏性の現起することをいう。万物は普遍的なほとけ(如来)のいのちの表現活動であるとするのが「性起」であり、華厳の見方であり、個物は普遍的なほとけのいのちを本具でるとみるのが天台の見方である。
 もっと端的に言うなら、「性起」は現象論を説き、「性具」は人間の煩悩論を説いている。

性とは体なり、起とは心地に現在するのみ    〔智儼:華厳経捜玄記〕

 注意したいのは、長い間修行を続けて、しだいに煩悩をなくして、ついに清らかな仏の心に到達する(性具)、というのではない。本来、わたしたちは成仏しているのだ、というのが性起である。

不改を性と名づけ、顕用を起と称する。それはすなわち仏陀の性起である。また真理を如と名づけ、性と名づけ、顕用を起と名づけ、来と名づける。それは如来を性起とすることである。    〔法蔵:華厳経探玄記〕
性起とは本具の性である    〔華厳経問答〕

 この性起の見方に3種ある。

  1. 理性起 人間には本来あるべき相としての理性・仏性を生まれながらにもっている。
  2. 行性起 本来もっている理性を現わしていく修行の立場から見るのを行性起といい、修行の意味を表わす。
  3. 果性起 修行によって完成し、清らかな仏果が現われた立場から性起を説く。

 この性起は『華厳経』の

一切衆生 悉く皆如来の智慧徳相を具有す、ただ妄想執着あるが故に証得せず    〔華厳経〕

から発展した。衆生は本来、如来の相を具えている、ということであり、本来的自己とは、如来のいのちなのである、ということ。我々の現実の心が煩悩に覆われ、自我を主張し、苦悩にあえいでいる、このような我々の心そのものが、如来のいのちの現われである、とするのが性起の思想である。

この生死はすなはち仏の御いのちなり。これを厭ひ捨てんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり    〔道元正法眼蔵