しんぎょう
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心行
心は念念に遷流するものあるから心行と言う。又善悪の所念を心行と云ふ。
- 仏、かの心行を知るが故の為に、大乗を説く。〔法華経方便品 T09-0008a〕
- 広く法網の目を施し、心行の鳥を捕える。〔摩訶止観5、T46-0059b〕
- 弥陀の回向成就して 往相・還相ふたつなり これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ〔高僧和讃 曇鸞讃 p.583〕
浄土真宗では、ことに親鸞聖人が微妙な使い方をしている。TYU:心行
信行
法行に対す。自ら聖法に依て行ずるを法行と云ひ。他の教を信じて行ずるを信行と云ふ。即ち信行は鈍根にして聞慧を成じ、法行は利根にして思慧を成ず。
- 教門は信行の人の為に、観門は法行の人の為にす。〔妙法蓮華經玄義 T33.0806a〕
信楽
浄土真宗の親鸞の解釈では、『無量寿経』の第十八願の三心の一つであり、三心はこの「信楽」の一心に摂まる。
阿弥陀仏の本願の生起本末を聞いて疑わない心をいう。他力の信心のこと。
- 至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ 不思議の誓願あらはして 真実報土の因とする 〔浄土和讃 p.566〕
ことに三一問答などに詳しい。TYU:信楽
梵文大経
梵文では清く澄んだ心となっている。原語は「prasannacitta」であるが、名詞「prasāda」を内含して意味している。プラサーダとは「心がすみきって明るく軽やかになった状態」を意味する。この解釈はチベット訳によっても確かめられる。プラサーダという語をチベット訳は「いとも清らかなこと」(rab tu dań ba)と解している。
漢訳仏典ではしばしば「澄浄の義」であると解せられ、第三十五願では「歓喜信楽」と訳されている。学者によっては「浄信」「歓喜」と訳すこともある。しかしたとい漢訳に「信」という文字が使ってあったとしても西洋の宗教でいうような「信仰」の意味に解することは困難である。「心をきよくすませることのみによって(citta prasāda mātreṇa)極楽世界に生まれる」ところの菩薩に言及している。この箇所のプラサーダを特殊な教義に対する信仰という意味に解することは困難であろう。