操作

「しんだい」の版間の差分

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(真諦)
 
(同じ利用者による、間の2版が非表示)
1行目: 1行目:
 
=真諦=
 
=真諦=
「しんたい」とも読む。paramaartha परमार्थ (skt.)、([[499年]]-[[569年]])
+
「しんたい」とも読むが、通常は「しんだい」と濁る。Paramārtha परमार्थ (skt.)、〈499 - 569年〉
  
西[[インド]]のアヴァンティ(avanti अवन्ति)国のウッジャイニー(ujjaynii उज्जयिनी)の[[バラモン]]出身の学僧。諸国を巡って、[[546年]]に海路、中国の広州へ来た。[[548年]]、南朝の梁の武帝の要請で建康(金陵)に入ったが、梁末の戦乱によって各地を流浪した。<br>
+
 西[[インド]]のアヴァンティ(avanti अवन्ति)国のウッジャイニー(ujjaynī उज्जयिनी)の[[バラモン]]出身の学僧。諸国を巡って、〈546年〉に海路、中国の広州へ来た。〈548年〉、南朝の梁の武帝の要請で建康(金陵)に入ったが、梁末の戦乱によって各地を流浪した。<br>
:訳経僧をしばしば[[さんぞう|三蔵]]と呼ぶが、真諦三蔵と呼ぶことはあまりない。
+
: 訳経僧をしばしば[[さんぞう|三蔵]]と呼ぶが、真諦三蔵と呼ぶことはあまりない。
  
中国滞在の間、多数の仏典を翻訳した。ことに、彼の翻訳によって、南中国では『[[しょうだいじょうろん|摂大乗論]]』の学説を下に、仏教を大乗と小乗に区分するようになった。また、その論の研究が盛んとなって「[[しょうろんしゅう|摂論宗]]」ができ、真諦は祖師と呼ばれた。
+
 中国滞在の間、多数の仏典を翻訳した。ことに、彼の翻訳によって、南中国では『[[しょうだいじょうろん|摂大乗論]]』の学説を下に、仏教を大乗と小乗に区分するようになった。また、その論の研究が盛んとなって「[[しょうろんしゅう|摂論宗]]」ができ、真諦は祖師と呼ばれた。
  
 
===翻訳===
 
===翻訳===
*金光明経
+
* 金光明経
*倶舎釋論    大29, 161
+
* 倶舎釋論    大29, 161
*[[しょうだいじょうろん|摂大乗論]] 3巻 大31, 113
+
* [[しょうだいじょうろん|摂大乗論]] 3巻 大31, 113
*摂大乗論釈 15巻 大31, 152
+
* 摂大乗論釈 15巻 大31, 152
*[[ちゅうべんふんべつろん|中辺分別論]] 2巻 大31, 451
+
* [[ちゅうべんふんべつろん|中辺分別論]] 2巻 大31, 451
*[[だいじょうきしんろん|大乗起信論]]   大32, 575
+
* [[だいじょうきしんろん|大乗起信論]]   大32, 575
 
等、64部278巻
 
等、64部278巻
 +
 +
----
  
 
=真諦=
 
=真諦=
  
 
[[だいいちぎたい|第一義諦]]の事を指す。<br>
 
[[だいいちぎたい|第一義諦]]の事を指す。<br>
:この意味の時には、「しんたい」と濁らずに読むのが普通である。
+
:この意味の時には、「[[しんたい]]」と濁らずに読むのが普通である。

2017年4月15日 (土) 16:13時点における最新版

真諦

「しんたい」とも読むが、通常は「しんだい」と濁る。Paramārtha परमार्थ (skt.)、〈499 - 569年〉

 西インドのアヴァンティ(avanti अवन्ति)国のウッジャイニー(ujjaynī उज्जयिनी)のバラモン出身の学僧。諸国を巡って、〈546年〉に海路、中国の広州へ来た。〈548年〉、南朝の梁の武帝の要請で建康(金陵)に入ったが、梁末の戦乱によって各地を流浪した。

 訳経僧をしばしば三蔵と呼ぶが、真諦三蔵と呼ぶことはあまりない。

 中国滞在の間、多数の仏典を翻訳した。ことに、彼の翻訳によって、南中国では『摂大乗論』の学説を下に、仏教を大乗と小乗に区分するようになった。また、その論の研究が盛んとなって「摂論宗」ができ、真諦は祖師と呼ばれた。

翻訳

等、64部278巻


真諦

第一義諦の事を指す。

この意味の時には、「しんたい」と濁らずに読むのが普通である。