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じしょうしょうじょう、prakRti-prabhaasvara प्रकृतिप्रभास्वर、prakRti-vizuddhi प्रकृतिविशुद्धि
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<big>prakṛti-prabhāsvara</big> प्रकृतिप्रभास्वर、<big>prakṛti-viśuddhi</big> प्रकृतिविशुद्धि
  
字義は「自性として(=本来)清浄なこと」の意。仏典では多くの場合、心について言われる。<br>
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 字義は「自性として(=本来)清浄なこと」の意。仏典では多くの場合、心について言われる。<br>
 
:比丘たちよ、心は輝いている。ただ、[[きゃくじんぼんのう|客塵煩悩]]によって汚(けが)れている
 
:比丘たちよ、心は輝いている。ただ、[[きゃくじんぼんのう|客塵煩悩]]によって汚(けが)れている
''増一[[あごんきょう|阿含経]]''(増支部)に、このようにあり、心性本浄説といわれる。<br>
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 ''増一[[あごんきょう|阿含経]]''(増支部)に、このようにあり、心性本浄説といわれる。<br>
「清浄」とは白紙のような状態と解され、「自性として」とは、本来清浄であるが、現実には汚れているという意が含められている。そこで、悟りによって客塵を離れた状態は'''離垢清浄'''(りくしょうじょう)と説明される。垢(けが)れを離れて本来の清浄性を取り戻したという意味である。
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 「清浄」とは白紙のような状態と解され、「自性として」とは、本来清浄であるが、現実には汚れているという意が含められている。そこで、悟りによって客塵を離れた状態は'''離垢清浄'''(りくしょうじょう)と説明される。垢(けが)れを離れて本来の清浄性を取り戻したという意味である。
  
 
===四種清浄===
 
===四種清浄===
[[ゆいしき|唯識]]では、[[ゆが|瑜伽]]行によって心が離垢することを重視し、'''自性清浄'''とあわせて'''離垢清浄'''を並べ、さらに'''所縁清浄'''(仏の法すなわち教説の清浄性)、'''道清浄'''(修行道の無漏(むろ)性)とあわせて、'''四種清浄'''という。この場合、「自性清浄」は、[[しんにょ|真如]]、[[ほっかい|法界]]を意味する。
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 [[ゆいしき|唯識]]では、[[ゆが|瑜伽]]行によって心が離垢することを重視し、'''自性清浄'''とあわせて'''離垢清浄'''を並べ、さらに'''所縁清浄'''(仏の法すなわち教説の清浄性)、'''道清浄'''(修行道の無漏(むろ)性)とあわせて、'''四種清浄'''という。この場合、「自性清浄」は、[[しんにょ|真如]]、[[ほっかい|法界]]を意味する。
  
 
===その他の解釈===
 
===その他の解釈===
心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分れ、[[せついっさいうぶ|説一切有部]]などはこれを認めない。<br>
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 心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分れ、[[せついっさいうぶ|説一切有部]]などはこれを認めない。<br>
 
大乗はほとんどすべてこれを承認しているが、''[[はんにゃきょう|般若経]]'' は清浄を[[くう|空]]の意に解し、ひろく、法が縁起、無自性、空であることを示すものと解釈した。<br>
 
大乗はほとんどすべてこれを承認しているが、''[[はんにゃきょう|般若経]]'' は清浄を[[くう|空]]の意に解し、ひろく、法が縁起、無自性、空であることを示すものと解釈した。<br>
[[にょらいぞう|如来蔵]]系の理論では、自性清浄心を、如来蔵、[[ぶっしょう|仏性]]の名で、[[にょらい|如来]]の[[ほっしん|法身]]と同質の[[むい|無為]]なる存在として絶対化し、これを'''心性'''(しんしょう)とよんでいる。さらに、''[[だいじょうきしんろん|大乗起信論]]'' はこれを[[ほんがく|本覚]]とも呼んでいる。
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 [[にょらいぞう|如来蔵]]系の理論では、自性清浄心を、如来蔵、[[ぶっしょう|仏性]]の名で、[[にょらい|如来]]の[[ほっしん|法身]]と同質の[[むい|無為]]なる存在として絶対化し、これを'''心性'''(しんしょう)とよんでいる。さらに、''[[だいじょうきしんろん|大乗起信論]]'' はこれを[[ほんがく|本覚]]とも呼んでいる。

2020年5月20日 (水) 11:35時点における最新版

自性清浄

prakṛti-prabhāsvara प्रकृतिप्रभास्वर、prakṛti-viśuddhi प्रकृतिविशुद्धि

 字義は「自性として(=本来)清浄なこと」の意。仏典では多くの場合、心について言われる。

比丘たちよ、心は輝いている。ただ、客塵煩悩によって汚(けが)れている

 増一阿含経(増支部)に、このようにあり、心性本浄説といわれる。
 「清浄」とは白紙のような状態と解され、「自性として」とは、本来清浄であるが、現実には汚れているという意が含められている。そこで、悟りによって客塵を離れた状態は離垢清浄(りくしょうじょう)と説明される。垢(けが)れを離れて本来の清浄性を取り戻したという意味である。

四種清浄

 唯識では、瑜伽行によって心が離垢することを重視し、自性清浄とあわせて離垢清浄を並べ、さらに所縁清浄(仏の法すなわち教説の清浄性)、道清浄(修行道の無漏(むろ)性)とあわせて、四種清浄という。この場合、「自性清浄」は、真如法界を意味する。

その他の解釈

 心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分れ、説一切有部などはこれを認めない。
大乗はほとんどすべてこれを承認しているが、般若経 は清浄をの意に解し、ひろく、法が縁起、無自性、空であることを示すものと解釈した。
 如来蔵系の理論では、自性清浄心を、如来蔵、仏性の名で、如来法身と同質の無為なる存在として絶対化し、これを心性(しんしょう)とよんでいる。さらに、大乗起信論 はこれを本覚とも呼んでいる。