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じしょうしょうじょう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2020年5月20日 (水) 11:35時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (自性清浄)

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自性清浄

prakṛti-prabhāsvara प्रकृतिप्रभास्वर、prakṛti-viśuddhi प्रकृतिविशुद्धि

 字義は「自性として(=本来)清浄なこと」の意。仏典では多くの場合、心について言われる。

比丘たちよ、心は輝いている。ただ、客塵煩悩によって汚(けが)れている

 増一阿含経(増支部)に、このようにあり、心性本浄説といわれる。
 「清浄」とは白紙のような状態と解され、「自性として」とは、本来清浄であるが、現実には汚れているという意が含められている。そこで、悟りによって客塵を離れた状態は離垢清浄(りくしょうじょう)と説明される。垢(けが)れを離れて本来の清浄性を取り戻したという意味である。

四種清浄

 唯識では、瑜伽行によって心が離垢することを重視し、自性清浄とあわせて離垢清浄を並べ、さらに所縁清浄(仏の法すなわち教説の清浄性)、道清浄(修行道の無漏(むろ)性)とあわせて、四種清浄という。この場合、「自性清浄」は、真如法界を意味する。

その他の解釈

 心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分れ、説一切有部などはこれを認めない。
大乗はほとんどすべてこれを承認しているが、般若経 は清浄をの意に解し、ひろく、法が縁起、無自性、空であることを示すものと解釈した。
 如来蔵系の理論では、自性清浄心を、如来蔵、仏性の名で、如来法身と同質の無為なる存在として絶対化し、これを心性(しんしょう)とよんでいる。さらに、大乗起信論 はこれを本覚とも呼んでいる。