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じひ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

慈悲

じひ、maitreya karuṇā मैत्रि करुणा (S) 原語は、どちらか一方であったり、双方組み合わされている場合もある。

語源

 仏教で説くあわれみの心、いつくしみの心。
 「慈」はサンスクリットmaitrīを原語とし、これはmitra(友)から派生した抽象名詞で、あらゆる人に平等に注がれる最高の友情、友愛という意味。
 「」はあわれみ,同情の意でkaruṇāを原語とし、嘆きを原義とする。他人の嘆きと同化し、みずからも嘆きをともにするとき、他人に対する最も深い理解が生じると説く。慈は人びとに楽を与えること、悲は人びとの苦を抜いてあげることをいい、「抜苦与楽」といわれる。生きとし生けるものをから救済するという利他行を展開せしめる原動力がこの慈悲である。

原初の慈悲

 仏教以前の慈悲は、慈悲行という「苦行」と修行徳目のひとつであった。
 出家という存在をどうしても肯定しようとしない保守的なバラモン階級をはじめとする少なからぬ人々から、蔑まれたり、ののしりを受けたり、揶揄されたり、悪質ないやがらせを受けたりした。(特定の政治権力や宗教権力によって弾圧されたということではない)
 これに立腹して敵煽心を燃やすようなことをしないばかりか、逆にそういう人々をも慈しみ愛おしむというのが慈悲行であり、これに徹するのはたいへん難しい。だからこそ、苦行の修行徳目として成り立った。
 ゴータマ・ブッダは、この慈悲行は、心を鎮め、徹底思考の瞑想に適した清澄なものにする、つまり智慧の醸成にたいへん有効であると考えた。そして、ゴータマ・ブッダは、慈悲行という苦行は捨てずに継承した。

 最初期の仏教において、人間の宗教的実践の基本的原理として特に強調したことは、慈悲であった。
 初期の仏教では、特に他人のために教を説いて迷いを除き、正しいさとりを得しめることが慈悲にもとづく重要な活動とされている。釈尊が成道後に、梵天のすすめに応じて世の人々のために法を説かれたのは、慈悲にもとづくのである。『そのとき世尊は梵天の意願を知り、また衆生に対するあわれみ(kāruññatā)により、仏の眼を以て世間を見わたした。』だから出家して仏教教団に入って修行者(比丘)となった者は世人のために法を説かねばならぬ。『慈悲により同情により憐れみによって、他人のために法を説く。』説法ということは、教団人にとって重大な義務であった。教団人は世人にそむくために出家したのではなくて、世人を真実に愛するが故に出家したのでなくてはならない。

 『あたかも、母が己が独り子をば、身命を賭しても守護するがごとく、そのごとく一切の生けるものに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。また全世界に対して無量の慈しみの意(mettā aparimānā)を起すべし。
 上に下にまた横に、障礙なき怨恨なき敵意なき(慈しみを行うべし)。
 立ちつつも歩みつつも坐しつつも臥しつつも、睡眠をはなれたる限りは、この(慈しみの)心づかいを確立せしむくし。
 この(仏教の)中にては、この状態を(慈しみの)崇高な境地(brahm vihāra 梵住)と呼ぶ。〔SuttaNipāta Mettāsutta 149-151〕

 慈悲は一切の生きとし生けるものどもに及び、たとい微小なる一匹の虫けらといえども、これをいつくしまなければならない。

 思いを正しくして「無量の慈しみ」(mettā appamānā)を修する者あらぱ、かれは執着の滅亡を見つつあれば、幾多の束縛は微細となる。悪心あることなく、たとい一匹の生きものなりとも慈しむ(mettāyati)ものあらぱ、かれはそれによって善人となる。こころに一切の生けるものをあわれみつつ(anukampaṃ)、聖者は多くの功徳をつくる。生きものに充ちみちたる大地を征服して、馬祠・人祠・擲捧祠・ソーマ祠・無遮会の主催者としてへ廻る聖王も、慈しみにみちたるこころ(metta-citta)をよく修したる人の十六分の一だにも値せず。月光に対する群がる星くずのごとし。〔他のものを〕殺すことなく、殺さしむることなく、勝つことなく、勝たしむることなく、一切の生きとし生けるものどもに慈しみのこころあらぱ、何人もかれに怨みをいだくことなし。〔Dhammapada 43〕

四無量心

 慈悲は、基本的に自己は無我であると悟るところにあらわれる自他不二から起こる。その精神が具体化されたものが、大乗における六波羅蜜の実践行であり、慈悲を本質とする阿弥陀、あるいは慈悲の権化といわれる観音菩薩であり、大乗・小乗に共通な四無量心といわれる修行法である。

 衆生を愛念して楽を与えるのを慈、衆生を愍傷して苦を除くのを悲と言い、或いは無利益を除くのを慈、利楽を与えるのを悲という。

 諸の衆生の為に無利益を除く、是れを大慈と名づけ、衆生に無量の利楽与えんと欲す。是れを大悲と名づく。  〔北本 大般涅槃経15、T25-256b〕
 慈は衆生を愛念するに名づく、常に安穏楽事を求めて以て之を饒益す。悲は衆生を愍念するに名づく、五道中の種々の身苦心苦を受く。  〔智度論 20〕
 生きとし生けるものが専ら苦のあつまりを身に受けていることを縁起の道理によって観じつつあるときには、悲<アワレミ>が起り、また、これらの生きとし生けるものはすべて、この専らなる苦のあつまりから、われによって解脱さるべきである、と観じつつあるときには、慈が起る。  〔Bodhisattvabhūmi, p.329, l.11f〕
 初習業の位に如何が慈を修する、謂わく先ず自所受の楽を思惟し、或いは仏菩薩声聞及び独覚等の所受の快楽を説くを聞きて便ち是の念をなす、願わくば諸の有情をして一切等しく是の如きの快楽を受けしめんと。若し彼れ本来煩悩増盛にして、是の如く平等に心を運ぶこと能わざれば、有情に於て分ちて三品となすべし、所謂親友と処中と怨讐となり。親に復た三を分つ、謂わく下中上なり。中品は唯一なり。怨にも亦三を分つ、謂わく下中上なり。総じて七品を成ず。品の別を分ち已りて、先ず上の親に於て真誠の与楽勝解を発起し、此の願成じ已らば中下の親に於ても亦漸次に是の如きの勝解を修す、親の三品に於て平等なることを得已らば、次に中品と下中上の怨とに於て亦漸次に是の如きの勝解を修す。敷習力に由りて能く上の怨に於て与楽の願を起して上の親と等しからしむ。此の勝解を修して既に無退を得ば、次に所縁に於て漸修して広からしむ。謂わく漸に想を運びて一邑、一国、一方、一切の世界を思惟し、与楽の行相遍満せざることなし。是を慈無量を修習いること成ずとなす。‥‥悲を修する法も此に准じて知るべし。  〔倶舎論 29〕

 これは四無量心の中の慈無量悲無量の2を説いたものであり、即ち声聞の人等が衆生を縁じて楽を与え、またその苦を抜かんと観想する法を明かしたものである。

菩薩の慈悲

 西暦前1世紀頃からおこった大乗仏教の運動においては、修行者は菩薩と呼ばれ、生きとし生けるものを救おうという慈悲の心をもつとされる。そのことについて

 彼ら菩薩大士たちは、多くの人々の福利のため、多くの人々の幸福のため、世間に対する憐憫の情のために、修行しているのである。(菩薩大士たちは)多くの、たくさんの人々の利益のため、福利のため、幸福のために、さらに神々や人間たちの憐憫者として憐憫の情のために、無上にして完全なさとりをさとりたいと思っているのである。(梶山雄一訳)〔八千頌般若経 第10章〕

とされ、その聴聞の有資格者について

 勇気があり、慈しみの心があり、この世において長い期間に亘って、慈悲を養い、そのために生命を捨てる者。(岩本裕訳)〔法華経 譬喩品〕

としている。

 このような菩薩の慈悲を象徴する存在が、『法華経』(普門品)などにあらわれる観音菩薩、すなわち、観世音菩薩(Avalokiteśvara)である。この菩薩は、慈悲の心をもってさまざまに身を変え、仏とならず、生きとし生けるものを救うという。
 以上のような大乗経典における慈悲の宣揚は中観派にも受けつがれ、理論的 に整備されていく。龍樹撰と伝えられる『大智度論』が「慈悲は是れ仏道の根本なり」、あるいは「大慈大悲を名づけて一切の仏法の根本と為す」(巻27)としてそのくわしい分類・解釈を行なうとともに、「菩薩は大悲心を以ての故に、般若波羅蜜を得」(巻20)と述べて、大悲心なしに真実のさとりはありえないことを説くのは、その典型的な例であろう。
 また『大智度論』(巻40)には、『大乗涅槃経』(巻15)などの場合と同じく、慈悲の心に衆生縁、法縁、無縁の3種の区別があるとされている。一方、唯識派の系統においては、そのような慈悲の絶対化の傾向は見られない。このことは、おそらく彼らの瑜伽行と総称される修行法の性格に関連するのであろう。

三種の慈悲

 上記の通り、大般涅槃経等には慈悲に衆生縁、法縁、無縁の3種の別があることを説く。これは、

 慈に三縁あり、一には衆生を縁じ、二には法を縁じ、三には則ち無縁なり。‥‥衆生縁とは五陰を縁じて其の楽を与えんことを願う、是を衆生縁と名づく。法縁とは諸の衆生の所須の物を縁じて之を施与す、如来大師は貧窮を永離して第一の楽を受く。若し衆生を縁ぜば則ち仏を縁ぜず、法も亦是の如し。是の義を以ての故に、如来を縁ずる者を名づけて無縁と曰う。世尊、慈の所縁は一切衆生なり、父母妻子親属を縁ずるが如し、是の義を以ての故に名づけて衆生縁と曰う。法縁とは父母妻子親属を見ず、一切法は皆縁より生ずと見る、是れを法縁と名づく。無縁とは法相及び衆生相に住せず、是れを無縁と名づく。  〔涅槃経 15〕
 慈悲心に三種あり、衆生縁、法縁、無縁なり。凡夫は衆生縁なり、声聞辟支仏及び菩薩は、初は衆生縁、後は法縁なり。諸仏は善く畢竟空を修行するが故に名づけて無縁となす。  〔大智度論 40〕

 浄影の『観無量経義疏』末にこれを解釈して、衆生縁とは諸の衆生を縁じて楽を与え苦を抜かんと欲するを言い、法縁とは諸の衆生は無我無人にして、但だ五陰生滅の法数のみありと観じて慈悲を行じ、或いは衆生は妄に我人の為に纏縛されるのを念じ、深く哀傷して慈悲を行ずるを云い、無縁とは五陰空寂にして本来無所有なり、故に第一義諦に住して無度の度を施すを云う、とする。

 一に衆生縁は心に一切衆生を攀縁すことなく、而も衆生に於いて自然に益を現ず。涅槃経に我れ実に往かず、慈善根力を以て能く衆生をして斯くの如きの事を見せしむと云うが如し。二に法縁とは心に法を観ずることなく、而も諸法に於て自然に普く照す、日の物を照すに分別する所なきが如し。三に無縁とは心に理を観ずることなく、而も平等第一義の中に於て自然に安住す。  〔智顗『観無量寿経疏』下〕

つまり、親疎各別の衆生を縁じて慈悲を起すのを衆生縁とし、無我の理を知って、衆生は幻化のようなものだと観じて慈悲を行ずるのを法縁として、法の相および衆生の相を見ないで、第一義諦に住して平等に慈悲を起こすのを無縁と呼ぶのである。しかし、慈悲は凡夫や二乗等も起こすとは言うが、それらは衆生縁か法縁であって、平等無縁となることはないから、仏の慈悲だけを「大慈大悲 mahā-maitrī-mahā-karuṇā」とするのである。『観無量寿経』に「仏心とは大慈悲是れなり」とある。

 問うて曰く、大慈大悲は是の如くんば、何等か是れ小慈小悲にして、此の小に因りて名づけて大と為す。答えて曰く、四無量心の中の慈悲を名づけて小と為し、此の中の十八不共法に次第して大慈悲を説くを名づけて大となす。復次に諸仏心中の慈悲を名づけて大となし、余人心中のものを名づけて小となす。問うて曰く、若し爾らば何を以て菩薩は大慈大悲を行ずと言うや。答えて曰く、菩薩の大慈は仏に於いて小となし二乗に於いて大となす。此れは是れ仮に名づけて大となす。仏の大慈大悲は真実にして最大なり。復た次に小慈は但だ心に衆生に楽を与えんと念ずるも、実には楽事なし。小慈は衆生の種々の身苦心苦を観ずるに名づく、憐愍するのみにして脱せしむること能わず。大慈は衆生をして楽を得しめんと念じ、亦楽事を与う。大悲は衆生の苦を憐愍し、亦能く苦を脱せしむ。復次に凡夫人声聞辟支仏菩薩の慈悲を名づけて小となし、諸仏の慈悲を乃ち名づけて大となす、復次に大慈は大人の心中より生じ、十力・四無所畏・四無礙智・十八不共法の大法の中より出で、能く三悪道の大苦を破し、能く三種の大楽を与う。天楽と人楽と涅槃楽となり。復次に是の大慈は十方三世の衆生乃至昆蟲に遍満し、慈は骨髄に徹して心捨離せず、三千大千世界の衆生の三悪道に堕せんに、若し人ありて一々皆代わりて其の苦を苦を受け、苦を脱することを得しめ已りて、五所欲の楽、禅定の楽、世間最上の楽を以て自ら恣に之を与えて皆満足せしめんも、仏の慈悲に比するに千万分の一分にも及ばず。何を以ての故に、世間の楽は欺誑不実にして生死を離れざるが故なり。  〔大智度論27、T25-256c〕

と言うのがその説であり、諸仏の大慈悲の広大なることを説いている。

 苦を抜くを慈と日い、楽を与うるを悲という。ここに依るが故に一切衆生の苦を抜き、悲に依るが故に無安衆生心を遠離せり。  〔往生論註 下、T40-842b〕
 与楽を慈と云ひ、抜苦を悲と云ふ。 〔円乗院宣明述『教行信證講義』3055〕
 他の苦を抜きて楽を与へんと欲する。 〔宝雲述『往生論註筆記』下84〕
 慈悲とは無瞋と不審とを申也。無瞋は慈也、不審は悲也。 〔『唯識大意』〕

 この三縁の慈悲とは、第一は一般衆生といわれる人々の慈悲、あわれみの心をいうのであり、第二は聖人といわれる阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、第三は仏の哀愍の心であると位置づけることができる。この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲といえる。
 昔の人が俗世間的に慈悲という文字を「茲心非心」と分割して「この心、心に非ず」と読み、自分の心を中心とするのでなく、相手の心を心として生きる。いっさいの人々と同体であるという自覚に生きることが慈悲であると説明し、一切は同体であり一体であるという自覚のはたらくすがたであると言える。このような心が本当の人間の心であるというのが仏教の考え方であり、そこに成仏が常に他を救うことによる自己の成仏といわれる理由がある。そのような点で、大悲は俗智であるといわれる。

 大悲は、単なる「悲」が「無瞋」(いかりの心がないこと)をその(ものがら)とするのに対して、「無癡」(道理をはっきり自覚している心)を、その体としているといわれ、限定された人々に対してでなく、愚者・智者・賢者の区別なく、すべての人々において働く哀愍の心を大悲という。