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 1175年(安元元) 法然は43歳で[[せんじゅねんぶつ|専修念仏]]の確信をえた。まだ教団は形成されていなかったが、このときをもって浄土宗開創とする。<br>
 
 1175年(安元元) 法然は43歳で[[せんじゅねんぶつ|専修念仏]]の確信をえた。まだ教団は形成されていなかったが、このときをもって浄土宗開創とする。<br>
 教団としての成長をみるのは後鳥羽天皇のころからである。初期浄土宗諸派の始祖となった[[しょうくう|証空]]([[せいざんは|西山派]])、[[べんちょう|弁長]]([[ちんぜいは|鎮西派]])、[[こうせい|幸西]]([[いちねんぎは|一念義派]])、[[ちょうせい|長西]]([[しょぎょうほんがんぎは|諸行本願義派]])、[[りゅうかん|隆寛]]([[たねんぎは|多念義派]])らがあいついで門弟となり、1201年(建仁元)[[しんらん|親鸞]]が入門した。九条兼実、熊谷直実ら貴族や武士の帰依者も増えた。<br>
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 教団としての成長をみるのは後鳥羽天皇のころからである。初期浄土宗諸派の始祖となった[[しょうくう|証空]]([[せいざんは|西山派]])、[[べんちょう|弁長]]([[ちんぜいは|鎮西派]])、[[こうさい|幸西]]([[いちねんぎは|一念義派]])、[[ちょうせい|長西]]([[しょぎょうほんがんぎは|諸行本願義派]])、[[りゅうかん|隆寛]]([[たねんぎは|多念義派]])らがあいついで門弟となり、1201年(建仁元)[[しんらん|親鸞]]が入門した。九条兼実、熊谷直実ら貴族や武士の帰依者も増えた。<br>
 
 1198年(建久9)法然は兼実のすすめで主著『[[せんちゃくほんがんねんぶつしゅう|選択本願念仏集]]』を著した。<br>
 
 1198年(建久9)法然は兼実のすすめで主著『[[せんちゃくほんがんねんぶつしゅう|選択本願念仏集]]』を著した。<br>
 
 1207年(承元元)しかし[[ひえいざん|比叡山]]や[[こうふくじ|興福寺]]など旧仏教の側からの非難や迫害は激しく、住蓮・安楽の事件をきっかけに法然、親鸞らは流罪となった(「承元の法難」)。<br>
 
 1207年(承元元)しかし[[ひえいざん|比叡山]]や[[こうふくじ|興福寺]]など旧仏教の側からの非難や迫害は激しく、住蓮・安楽の事件をきっかけに法然、親鸞らは流罪となった(「承元の法難」)。<br>

2020年5月17日 (日) 17:20時点における最新版

浄土宗

法然を宗祖とする日本の仏教の一宗派。
 『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三経(浄土三部経)と、インドの世親の著した『浄土論』を正依の経論とし、称名念仏によって、阿弥陀仏の極楽浄土往生することを期す。唐の善導を高祖、法然を宗祖とする。

略歴

 1175年(安元元) 法然は43歳で専修念仏の確信をえた。まだ教団は形成されていなかったが、このときをもって浄土宗開創とする。
 教団としての成長をみるのは後鳥羽天皇のころからである。初期浄土宗諸派の始祖となった証空(西山派)、弁長(鎮西派)、幸西(一念義派)、長西(諸行本願義派)、隆寛(多念義派)らがあいついで門弟となり、1201年(建仁元)親鸞が入門した。九条兼実、熊谷直実ら貴族や武士の帰依者も増えた。
 1198年(建久9)法然は兼実のすすめで主著『選択本願念仏集』を著した。
 1207年(承元元)しかし比叡山興福寺など旧仏教の側からの非難や迫害は激しく、住蓮・安楽の事件をきっかけに法然、親鸞らは流罪となった(「承元の法難」)。
 法然はまもなく許されたが洛中にはいることを許されず、摂津国勝尾寺にとどまった。
 1211年(建暦元)帰洛して、その翌年80歳で没した。

法然没後

 法然の没後、隆寛、空阿弥陀仏、幸西らが活躍したが旧仏教側の迫害は続いた。
 1227年(嘉禄3)には法然の妓堂が破却され、ついで3人が流罪に処せられた(「嘉禄の法難」)。
 隆寛は相模国飯山で没したが、関東に浄土宗が発展する素地をつくった。京都で勢力があったのは証空とその門流であり、最長老の信空なき後、主導権を掌中に収めていった。しかし信空と親しい湛空(たんくう)が二尊院を拠点に嵯峨門徒を擁し、いま一つの勢力をなしていた。
 二尊院は東山大谷の法然妓堂が知恩院として発展するまでの、法然没後約一世紀半の間の京都における法然信仰の中心地であった。
 弁長は北九州で教化に専念し、草野氏の保護を受け、筑後国善導寺(久留米市)を建てた。同寺は北九州地域の浄土宗の中核となった。鎮西に勃興した弁長の門流を鎮西派といい、弁長の弟子良忠によって関東に教線をのばした。良忠は鎌倉で著作と布教に専心し、理論的指導者として活躍、浄土宗典蔦疏を大成し、また関東浄土宗発展の貢献者となった。彼が住した悟真寺は、現在、光明寺(鎌倉市材木座)となっている。また良忠門下の6人はそれぞれ流派を立て、教線の拡張につとめた。すなわち白旗(しらはた)派の良暁、藤田派の性真(しようしん)、名越(なごえ)派の尊観、三条派の道光、一条派の然空(ねんくう)、木幡派の慈心である。白旗、藤田、名越の3派は関東に、他の3派は京畿に広まったが、後世にまで存続したのは白旗、藤田、名越、一条の4派であった。
 鎮西派の京都進出が始まったころ京都で勢力があったのは西山派であるが、鎮西派は、自派が法然の教えを守り、正統の宗義を相承していると主張して、進出をはかった。法然を元祖、弁長を二祖、良忠を三祖とする三代相承の法統は、この鎮西派によってうちたてられた。

室町・江戸時代

 室町時代に入って、名越派は北関東から東北に、藤田派もまた東北に勢力をのばし、白旗派は関東を地盤としていた。
 白旗派の聖冏(しようげい)は、浄土宗が独立した宗派と認められていない状況を遺憾として、浄土宗に宗脈・戒脈の相承があることを明かし、五重相伝の法を定め、浄土宗の僧侶となるには必ず宗戒両脈を相伝しなければならぬと規定した。
この伝法制度により、僧侶資格を同一形式で統一することができ、独立教団として発展していく基礎が固まった。このため聖冏は浄土宗中興の祖とされている。そして白旗派は三河に、一条派は北国に教線をのばした。
 1575年(天正3) 知恩院は南北朝のころ発展の基礎を固め、正親町天皇から浄土宗の本寺であることを認める綸旨を賜った。これは、諸国門末の香衣着用の勅許は知恩院が執奏、そむけば勅許毀破の綸旨を出すというもので、知恩院では「毀破綸旨」と称する。

近世

 近世浄土宗の制度的大成に貢献したのは知恩院尊照と増上寺存応(ぞんのう)である。ともに徳川氏と関係を結んで浄土宗を発展させた。
 1607年(慶長12)初めて宮門跡を置き、1615年(元和元)には「浄土宗法度」が制定されて、知恩院は浄土宗第一の本山としての地位を不動にした。増上寺は総録所となり、行政上の権限を掌握した。
 明治維新により徳川家の外護を失ったが、この危機は養朋(うがい)徹定、福田行誡らの指導により克服され、明治後半から近代教団としての体制が整備された。
 1947年 第2次大戦後、金戒光明(こんかいこうみよう)寺が黒谷浄土宗を立て、知恩院が本派浄土宗(のち浄土宗本派)を創立した。
 1961年 浄土宗と浄土宗本派が合同し、1977年には黒谷浄土宗も復帰した。

 中・近世を通して教団的に勢力を二分していたのは鎮西派と西山派とであるが、明治初年各宗の宗名が定められたとき、西山派が浄土宗西山派と号したのに対し、鎮西派では浄土宗を公称した。今日では浄土宗といえばもっぱら鎮西派を指す。なお西山派は、証空が粟生(あお)光明寺(現、京都府長岡京市)を拠点としてから西谷流、深草流、東山流、嵯峨流の4流に分かれ、その後も変遷をたどったが、現在は光明寺を本山とする西山浄土宗、禅林寺(永観堂)を本山とする西山禅林寺派、誓願寺を本山とする西山深草派などがある。