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そう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

 三宝の一つで、仏教の比丘・比丘尼もしくは大乗の僧の集りを言う。サンスクリット語ではサンガ(saṃgha)であり、それを音写したのが「僧伽」「僧佉」「僧企耶」、漢訳して「衆和合」「衆」と呼ぶ。今日では個人を「僧」と呼ぶことが多いが、『大智度論 』に「僧伽、秦に衆という。多くの比丘、一処に和合する。これを僧伽となずく」とあるように、僧伽とは同じ教えを信奉する人々の集団をいう。

 僧侶とは「侶」が徒・伴の意味であるので、集合名詞の「僧」の一人、もしくは集団を指す。他にも「僧徒」とも言う。

僧伽

 僧伽は、一般に「教団」と言ってもよいが、初期仏教では信者などを含まなかったので、今で言う教団ではない。厳密に出家者のみの僧伽は、ごく初期の時代だけであった。
僧伽は、釈迦の弟子としての出家した比丘たちによる集団として始まり、やがて釈迦の教えを信奉する在家の信者たちが加わった僧伽となり、さらに女性の出家者としての比丘尼の制度ができたと考えられる。

四衆

 「四衆」とは出家者の集団と在家者の集団をそれぞれ男女で区分したものである。 出家者は、比丘(bhikuṣu)・比丘尼(bhikuṣuṇī)。在家者は、優婆塞(upāsaka)・優婆夷(upāsikā)。

七衆

 「七衆」とは、比丘比丘尼になる予備段階として、出家者の仲間ではあるが比丘・比丘尼ではない三種を区分する。式叉摩那(しきしゃまな、śilṣamāṇa)・沙弥(しゃみ、śrāmaṇera)・沙弥尼(しゃみに、śrāmaṇerikā)である。
 『大毘婆沙論 』によれば、「七衆」は別解脱律儀(べつげだつりつぎ)といわれ戒の条文によって分けられているという。殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語の四性罪と飲酒の一遮罪とを離れたものが「優婆塞」であり、四性罪と日中を過ぎて食事してはならないという不非時食戒、不許蓄金銀戒などにそむく、多遮罪を離れたものを「沙弥」とし、一切の性罪遮罪を離れたものを「比丘」という。

比丘・比丘尼

 比丘・比丘尼は、出家者における男女の区別によるが、そのもとのことばは「乞食」を意味している。出家者として全く生産に従事しない比丘・比丘尼は、他者から布施されるものによって、生活を維持している。衣は糞掃衣を着し、食は托鉢によって得たものを食し、住は森林や園林に生活したのが、これら出家者であった。

優婆塞・優婆夷

 この比丘・比丘尼に対して、在家の信者を男女の別によって「優婆塞」と「優婆夷」に分ける。この両者は共に五戒をまもって在家生活を営む。この名は共に「up^asti」に由来し、「仕える」「奉仕する」という意味をもつ。したがって、在家の信者は出家者に対して奉仕する人々で、信士(信男)・信女などといわれる。
 この五戒とは、(1)不殺生戒(生きものを殺してはならない)、(2)不偸盗戒(ぬすみをしてはならない)、(3)不邪姪戒(よこしまな、またみだらな男女関係を許さない)、(4)不妄語戒(うそをついてはならない)、(5)不飲酒戒(酒を飲んではならない)の五種の戒をいう。
 在家ではあるが、現在いわれる信者でなく、四諦の教えを聞いて「法眼浄」を得て第一段の聖者となった人々である。

式叉摩那・沙弥・沙弥尼

 「七衆」の「式叉摩那」「沙弥」「沙弥尼」は、出家者としてやがて比丘・比丘尼となるべき人か、その試錬期にある者を言う。
 「式叉摩那」とは、パーリ語の「シックハティ」(sikkhati)を根本として「学ぶ」「学得する」という意味をもつ。「学法女」「学戒女」「正覚女」などと漢訳されるのは、この意味である。この式叉摩那は、女子が18歳から20歳までの2ケ年間に六法を学び修行して、具足戒をうけ比丘尼になる。その六法とは(1)染心相触(ぜんしんそうしょく)、(2)盗人四銭、(3)断畜生命、(4)小妄語、(5)非時食、(6)飲酒である。
 「沙弥」と「沙弥尼」は男女の区別からわけられ、「苦しむ」とか「苦労しながら努力する」という意味をもっており、「勤策男」「勤策女」などと訳され、比丘・比丘尼になる予備段階の者を言う。

四方僧伽

 当初、「僧伽」は単に仏教徒たちの集まりを意味したにすぎず、出家者たちは「道の人」という意味の沙門と呼ばれた。その後、出家者はひたすら道を求める人として乞食して生活をして、在家の人々は出家者の後援者となったのである。
 かくして仏教教団は、各地に成立し、それぞれ活動を行っていた。このような集団を現前僧伽と呼ぶ。ところが、五人から二十人位までの集団である現前僧伽の活動が活発になると、僧伽自身の統制、さらに相互の連絡等の必要が生じ、やがて四方僧伽と呼ばれるような僧伽全体の組織が必要となってきた。

 現象となって具体的に認識される事物・事象のありようの総称。この意味での相の原語にはlakśanaとnimittaとがあるが、存在全体を相・名・分別・真如・正智の5つに分類する五事説における相の原語はnimittaである。
 この五事における相の種類としては、『瑜伽論』で詳説される〔瑜伽師地論 T30-697a〕。そのなか、たとえば、次の6つがあげられている。

  1. 有相相  名称によって認識される相。
  2. 無相相  名称によって認識されない相。
  3. 狭小相  欲界において認識される相。
  4. 広大相  色界において認識される相。
  5. 無量相  無色界のなかの空無辺処・識無辺処において認識される相。
  6. 無所有相 無色界のなかの無所有処において認識される相。

lakṣaṇa लक्षण

 特徴、属性、徴候などの意味である。存在やものごとに特有な性質やしるしをさす。

nimitta निमित्त

 目印、外形的特徴をいう。執われてはならないという点で、否定的に使うことが多い。
 一般的には、「もののすがた」「ありさま」をいう。

 この相は次の二つに大別される。Ⅰ.事物の形相としての相。Ⅱ.原因としての相。前者を所縁相、後者を因縁相という。Ⅰはさらにⅰ.直接、事物と対することによって知覚される事物の形相(本性相)とⅱ.事物をはなれ、心のなかに作りだされる形相(影像相)とに分けられる。
 Ⅱ.は「因相」と訳される場合がある。
 このⅠ.の所縁相とⅡ.の因縁相に応遠離相と応修習相とを加えた四種も説かれる〔瑜伽師地論 T30-333c〕。

ākāra

 「行相」とも訳される。

kāraṇa

 原因。動機。

菩薩は二つの相に由って外の施物を以って諸の衆生に施す。

体・相・用

 一つのものがらを表すときに、この「体相用」の3つに区分して見る。

  • とは、「ものがら」といい、本体であり、本質を意味する。
  • とは、「はたらき」「作用」である。

性・相

 性相と言って、が「本質」であるのに対し、そのすがたをという。華厳宗でいう「総相」「別相」などの六相もこの意味である。


saṃjñā (S)

 遍行心所(細かい心作用)の一つ。対象が何であるかを知る知覚作用。たとえば、色(いろ)についていえば、「これは青色であって赤色ではない」と知覚する心の働きをいう。このように対象を明確に知覚するときには、言葉によって把握する。したがって想には、言葉(名言)を発する働きがある。

 想、取像、為体。〔『倶舎』1,T29-3c〕
 想、謂、於境、取差別相。〔『倶舎』4,T29-19a〕
 想云何。謂、了像。〔『瑜伽』3,T30-291b〕
 想、謂、於境、取像、為性。施設種種名言、為業。〔『成論』3,T31 ・11c〕

 次のような種類が説かれる。
(Ⅰ)2種〔『瑜伽師地論』55、T30-601c〕

  1. 随覚想。言葉を巧みに用いる人と天との想。
  2. 言説随眠想。言葉をいまだ使えない幼児などの想、あるいは鳥や獣の想。

(Ⅱ)6種〔『瑜伽』53、T30-593b~c〕

  1. 有相想。なんらかの対象をもった想・以下の(3)から(6)までの想がこれにあたる。
  2. 無相想。対象をもたない想・無色界のなかの有頂天(非想非非想処)での想、および出世間での想。
  3. 狭小想。三界のなかの欲界での想。
  4. 広大想。三界のなかの色界での想。
  5. 無量想。無色界のなかの空無辺処での想。
  6. 無所有想。無色界のなかの無所有処での想。

saṃjñā: saṃjñin (S)

 現象の真理を、あるいは現象の真実のありよう(不浄無常など)を思考し観察すること。広くは「AはBである」という想いや判断をいう。種類としては10種あるいは20種のが説かれる。cf. 十想

 実義のとは諸行の空性を思惟するをいう

 20種については〔『雑集論』15、T31-769a〕を参考。


saṃjñaka (S)

 「~と名付けられる、呼称される、いわれる」という意味の形容句。

 色などのの法に於て色などの法の名を建立す
 飲食・車乗・衣服・荘厳具などの諸のの事物は皆な是れ仮有なり