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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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 真理、真実。唯一無二の一諦、[[しんぞくにたい|真俗二諦]]、[[くう|空]]・[[け|仮]]・[[ちゅう|中]]の[[さんたい|三諦]]。[[く|苦]]・[[じつ|集]]・[[めつ|滅]]・[[どう|道]]の[[したい|四諦]]、四諦を細分した七諦・十諦・十六諦がある。<br>
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 真理、真実。唯一無二の一諦、[[しんぞくにたい|真俗二諦]]、[[くう|空]]・[[け|仮]]・[[ちゅう|中]]の[[さんたい|三諦]]。[[く|苦]]・[[じゅう|集]]・[[めつ|滅]]・[[どう|道]]の[[したい|四諦]]、四諦を細分した七諦・十諦・十六諦がある。<br>
 
 「satya」は、「有る」という動詞√as の現在進行形 sat から作られた名詞で「現に在りつつあるもの」、すなわち「現実」「事実」を意味する語である。
 
 「satya」は、「有る」という動詞√as の現在進行形 sat から作られた名詞で「現に在りつつあるもの」、すなわち「現実」「事実」を意味する語である。
  

2022年4月22日 (金) 09:47時点における最新版

たい、dhātu धातु(S)

 一般に「ものがら」と言い、はたらき()の本体と考えれば分かりやすい。もしくは、「用」は体に従属するものであって、花と香りの関係であるとする。

 モノの一定不変であって、他と区分できる一分が所依する根本のものをという。これに対して、能依の区分できるものをという。この体相について性相(しょうぞう)2宗で区別がある。
 法相宗では、能依の相の外に、所依の体があるとする。草木の外に大地があるようなものだという。
 華厳宗では、ただ能依の相そのものを所依の体とする。
たとえば人間で言うならば、法相宗では四肢五官は相であり、この外に同分の阿頼耶識があって、これが所依の体となる。華厳宗の場合は、四肢五官と同分の阿頼耶識を包摂したものを体として、他に体があるとはしない。
 円成実性依他起性との関係もこのようなものである。法相では依他起のすべての他に円成実の真理があるとし、華厳では依他起の万有の相を該通するものが、即、円成実の真体であるとする。

なを、体にはがつくが、用には、名がつかないことに注意すべきである。

kāya काय (sanskrit)

 身体の体。

 体とは「」の意味である。理に通達をすることを「体」といい、「体信」「体達」「体会」などという。


 真理のことをいう。

सत्य

satya

 真理、真実。唯一無二の一諦、真俗二諦三諦四諦、四諦を細分した七諦・十諦・十六諦がある。
 「satya」は、「有る」という動詞√as の現在進行形 sat から作られた名詞で「現に在りつつあるもの」、すなわち「現実」「事実」を意味する語である。

तत्त्व

tattva

 真理、原理。インド哲学のニヤーヤ(正理(しょうり)学派)では十六諦、サーンキヤ(数論(すろん))では二十五諦に基づいて、苦を脱した至上の幸福すなわち解脱を説く。