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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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2018年6月11日 (月) 15:06時点における最新版

大乗経典

 大乗仏教の教えを説いた経典のこと。
 西暦紀元前後に仏塔を拠点とした在家者を含む多様なグループの仏教徒が、出家者重視の部派仏教とは異なる立場から、新しい仏・菩薩の観念を中心とする大乗仏教の運動を起こした。そのなかで、自分たちは「大きな乗物」によって菩提へと進むとする信条のもとに、釈尊が直接説いた形態をとる経典(sūtra)を成立させ、信奉者を集めていった。運動が拡大するに従って、出家教団、他のグループとの接触が起きるなどして、経典自体も補正・増広・整備されていった。
 時代が経過するにともなって、大乗仏教の旗印のもとに新しい信仰・思想グループが多数形成され、次から次に種々の経典が成立した。その期間はほぼ7・8世紀までの長きにわたる。またその間に成立した大乗経典は、現在伝えられるものだけでも、漢訳で約1,200部、チベット語訳で約1,900部の多数に及んでいる。
 いずれも経典の原語はプラークリットを含む広義のサンスクリットであるが、そのうちの大部分は失われ、ごく少数の経典がサンスクリット原本をもっているにすぎない。
 大乗経典はそのいずれもが、歴史的人物としての釈尊によって説かれたこと、すなわち仏説であることを標傍している。近代の研究方法によれば、これが歴史的事実であることは否定される。
 時代的には釈尊により近い初期仏教期に形成され、部派仏教徒によって仏説として伝えられた阿含は、大乗仏教徒によって小乗の経典として低い次元に位置づけられたが、それにも発展の形跡が認められ、仏説の事実を確認することは容易ではない。しかし、部派仏教の担い手は、新たに形成されていく大乗経典に対比すれば、自己の阿含を仏説と主張できる点では優位に立っていた。その立場からすれば、創作的な大乗経典はいわば悪魔の語りもの(魔所説)ではありえても、仏説ではありえない。
 ところが、このような大乗非仏説論が部派仏教側からつきつけられ、歴史的事実とは認められないにもかかわらず、大乗仏教側は自己の経典を仏説と宣言してはばからない。そこでは、自己の経典こそが釈尊の到達した菩提=究極的立場をより明確にしているという確信が支えとなっている。
 歴史的な釈尊とその説法は時空的な枠組を飛びこえて、多数の仏の同時存在を認め、また超越的な法身による説法、仏の無限の慈悲といった観念を生み、真理でありさえすれば、それは仏説であるという考えが出てくる。
 この考えは、自己が直接仏と対面しうるという大乗仏教徒の自信を深めさせ、経典の内容を豊富にさせる方向ではたらいていったと思われる。
 小乗仏教の場合、阿含は比較的はやい時期に固定化に向かい、仏説の経典ではなくして、基本的にはその研究者による(したがって仏説ではない)論書として、アビダルマ仏教のなかで発展していった。経典がまず先行し、論書はその展開である。
 これに対して大乗仏教の場合は、特に2・3世紀以降になれば、ある特定の経典についてその原型成立が先行し、次にそれにもとづく論書の成立があり、この論書がその経典あるいはほかの内容に影響を与えるというように、経典と論書がいわば相互増幅ないし相互補完の関係に立つことがある。
 また思想の展開の面では、新しい要素を加えて先行するものの上に出ようとしたとき、時代的に前の経典と論書は後の新たな経典に吸収されるということになる。ここでは経典と論書が歴史的事実としては入り乱れているというほかない。仮に事実がそうであっても、後の論書の著者にとっては、古い小乗経典のみは不完全(未了義)でありえても、先行する大乗経典はすべて仏説として確固とした権威をもち、それに何か不都合があれば、問題は解釈をどうするかの議論となった。このように大乗仏教においては経典と論書とが複雑にからみあいながら、その思想を展開していったのである。
 したがって、長期間にわたって多数形成された大乗経典は、時代的には、まず、大乗仏教で最初の論書の著者であり、中観派の祖とされる龍樹(Nāgarjuna,150-250頃)と、出家者として兄無著(Asanga)とともに唯識説を説く瑜伽行派を確立した世親(Vasubandhu, 400-480頃)と、おくれて7世紀になって民間信仰として潜在していた密教が表舞台に出て経典を成立させる時期とによって、大きく3つに分けられる。すなわち龍樹以前は初期、彼以降世親までは中期了彼以降密教の成立期までを後期とみなしてよい。

初期大乗経典

最古層の大乗経典

 古い経典中の引用により現在知られうる最古のものは『六波羅蜜経』『菩薩蔵経』『三品経』などであり、菩薩の修行としての六波羅蜜の実践、過去の罪悪を告白しつつ仏を礼拝することを説いていたと思われるが、現在は失われている。このほか阿閦仏信仰を説き、般若経とも関係する『阿閦仏国経』、阿弥陀仏を観想する三昧を中心とする『般舟三昧経』も最古層に属すると推定される。さらに出家菩薩として実在したと思われる文殊を主人公とする、あるいは文殊信仰を主題とする『首楞厳三昧経』などもかなり古く、智慧にもとづく勇猛果敢(首楞厳)な利他行、心は煩悩に穢されていても元来清らかであるとする心性本浄説をすでに表明している。

般若経

 菩薩の実践としての六波羅蜜はその第六番目に位置する「般若波羅蜜」、すなわち完全な智慧を基本とするという考えのもとに、一連の般若経が成立した。菩薩の修行はある一定の修行の階梯に従って徐々に進むとされ、特に三昧の状態をめざし、あるいはその状態に入って一切のものはであると観ずべきこと、またそこで完全な智慧が得られること、それがあらゆる観念を対象として繰り返し語られる。
 経典自体の読誦に重きをおくとともに般若経が経典崇拝を勧めていることを見のがしてはならない。このような内容をもつ般若経は、担い手の増大にともなって増広の一途をたどり、『八千頌般若経』(32音節を1頌と計算して8,000頌の量をもつ般若経)から『二万五千頌般若経』、あるいは『十万頌般若経』や『金剛般若経』『般若心経』などを生みだし、7世紀に玄奘が漢訳した『大般若波羅蜜多経』600巻という彪大な経典群を形成することになる。

華厳経

 般若経の場合と同様に、最終的には漢訳本60巻あるいは80巻の『大方広仏華厳経』としてまとめられたものが華厳経であるが、その各部分の多くは当初独立したものであった。これは仏の菩提そのものを毘盧舎那仏(のちの密教では大日如来)のことばを超えた世界として表わし、そこにおいては、大小のすべてのものがそれぞれに自己のあり方を保ちながら、しかも全体を包含しているという全一的な世界観を提示する。この視点からすれば菩提心を起こしたばかりの菩薩であっても仏にひとしいとみなされうるが、『十地経』などはその修行の階梯とそこで得られる智慧を十住ないし十地のかたちで具体的に示し、『入法界品』は善財童子がいろいろな人に出会いそれぞれに教えを受けながら修行していく過程を描いている。

浄土教系

 中国・日本の浄土教浄土三部経として一括される『無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』などが浄土経典群であり、いずれも阿弥陀信仰を内容とするが、その成立過程は複雑である。菩薩による利他の誓願の結果として仏の世界(仏国土)、すなわち浄土がすでに存在しており、衆生はその誓願に支えられて浄土に生まれ、菩提に到達する。これが浄土思想の一般的なモティーフであり、たとえば阿閦仏・薬師仏の浄土など、種々の浄土信仰が並存したと思われる。そのなかで、無限の生命と光をもつ阿弥陀仏がうちたてた極楽浄土へ生まれんとする信仰が、おそらく西北インドにおいて徐々に有力なグループを生み、これらの経典が成立した。なお『観無量寿経』は観仏の方法を説き重要視されるが、インド本土でそれが成立したかどうか、疑わしい。

法華経

 「白い蓮のような正しい法」をタイトルとする法華経(漢訳では『正法華経』『妙法蓮華経』など)は、在家者による仏塔崇拝のなかから発生し、釈尊、釈迦如来の菩提が永遠であること、また無上の菩提に到達する道は仏に直結する一仏乗のみであり、他の声聞乗は方便にすぎないこと、衆生は永遠の釈迦如来によって菩提に到達すると確約されていること、を説いている。その場合、家(三界)が火事になったにもかかわらず玩具遊びに夢中の子供たちを、戸外に出るともっと大きな車(仏・菩薩乗)があると教えて、無事に避難させたという「三車火宅の喩」など、説得力のある比喩を有効に利用する。
 この経典にも新古の層があり、観音菩薩普門品(『観音経』)や普賢菩薩勧発品などは観音信仰、普賢菩薩の願行への賞讃を内容とし、のちに付加されたと思われ、経典全体としてみると結果的にはそのような複数の具体的な信仰形態を含むものとなっている。

 その他この時期に成立した大乗経典はきわめて多数にのぼり、のちに漢訳『大宝積経』120巻、『大方等大集経』60巻に収録されるようになった古層の経典などがそうであり、後代の密教経典につらなるものも含まれている。

中期大乗経典

 3世紀には、龍樹が『中論』等を著しての思想体系化に努め、4世紀には『勝鬘経』・『涅槃経』などの如来蔵経典、および『解深密経』・『大乗阿毘達磨経』の阿頼耶識経典など。

如来蔵系

 一切の衆生には如来になる可能性(如来蔵)、あるいはすでに如来であるという現実性(仏性)、をそなえているという如来蔵思想を主軸とするのが如来蔵経典であり、『大方等如来蔵経』『央掘魔羅経』『維摩経』『勝鬘経』『大般涅槃経』などが含まれる。いずれも初期の諸経典を継承発展させ、仏の菩提・法身の永遠性、仏の智慧の不可思議性を一切衆生悉有仏性の根拠とし、本来の仏性に目覚めることを衆生に勧めている。そのうち『維摩経』『勝鬘経』ではそれぞれ維摩居士勝鬘夫人が主人公を務め、在家仏教主義を前面に出す。また『大般涅槃経』(漢訳40巻または36巻)は善根皆無の衆生(一闡提)にも仏性があることを説き、雪山童子の激しい求法物語、仏乗を最高に美味な乳製品とされる醍醐で示す比喩などをもつ。しかしその前半10巻は比較的古く4世紀に成立したとしても、それ以後の部分は中央アジアでまとめられた可能性もある。

唯識系

 代表的な経典『解深密経』は、人間の心の根源をアーラヤ識と呼び、すべての認識・行為はそのなかに蓄積されまたそこから発現してくる、衆生はこのことを充分に理解し、たえざる修行を通じてその根源を解放し仏の智慧に転化させるべきであると述べる。衆生を現実的に観察することを出発点としていることもあって、衆生を一括して仏に直結させる法華経的な一仏乗の考えには反対している。その説き方は経典の形態を保っているが、論理的に精緻であって論書の性格さえうかがわれる。
 この経典とともに、いまは現存しない『大乗阿毘達磨経』などをよりどころとして、無著と世親(5世紀)が唯識説を体系化した。  さらに『楞伽経』はアーラヤ識の考えを説き唯識系の経典といちおう認められるが、如来蔵系の流れをも承け複合的な性格をもち、『金光明経』はそれより体系的に総合している。

 この時期には初期の経典の増広、グループ化が進行するとともに、たとえば地蔵信仰の原初形態を示す『地蔵十輪経』、陀羅尼を含む多くの経典が成立した。

後期大乗経典

 5世紀には無着世親によって瑜伽行派が生まれ、中観派と対立した。
 経典としては如来蔵と阿頼耶識との統合をはかった『楞伽経』や『大乗密厳経』が編集された。

 6世紀ころから密教化が進み、7世紀には『大日経』・『金剛頂経』などが作られ、金剛乗が成立した。
 ただし金剛乗は、自らを大乗と区別する意識をもっていた。

 すでに中期において、般若経に対する『中論』、如来蔵系経典に対する『宝性論』、唯識系経典に対する『瑜伽師地論』といったように、経典と論書とが平行する現象がみられ、その後は論書中心に理論が展開され大乗仏教が僧院のなかに閉じこもる傾向も顕著になっていった。
 他方、在家者はインドー般の呪術的な民間信仰とつねに接触をもち、陀羅尼、特殊な印契や曼茶羅を中心とする儀式を行ない、『華厳経』などの大乗の教理をとりいれながら徐々に密教の体系化をはかっていた。『文殊師利根本儀軌経』の古層はすでに6世紀には成立しており、密教的に雑多な信仰形態を記録しているが、7世紀になると二大密教経典『大日経』と『金剛頂経』が成立し、大日如来(大毘盧遮那仏)を中心として仏の大悲と智慧を象徴する胎蔵界・金剛界の両界曼茶羅の構想を確立し、それによって衆生が仏性をもっていること、また成仏していく過程、そのための儀礼の細部を規定した。修行としては仏の法身と一体となるヨーガ(瑜伽)が重要視され、『秘密集会(Guhyasamāja-tantra)』はその方法を詳細に展開している。