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(澄観)
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738-839 中国[[けごんしゅう|華厳宗]]の第四祖で、華厳教学の改革者。字は大休。勅号は清涼(しょうりょう)国師、俗姓は夏侯氏、浙江省会稽の出身。
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738-839 「ちょうがん」とも訓む。中国[[けごんしゅう|華厳宗]]の第四祖で、華厳教学の改革者。字は大休。勅号は清涼(しょうりょう)国師、俗姓は夏侯氏、浙江省会稽の出身。
  
 9歳のとき禅者の体真に師事し、11歳で出家、20歳で曇一から南山律を継ぎ、また常照に従って菩薩戒を受けた。さらに無名に参禅して荷沢宗の印可を得たのち、[[えおん|慧苑]]の弟子の法詵(ほうしん)に華厳宗の教えを受け、その法継を継いだ。
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 9歳のとき禅者の体真に師事し、11歳で出家、20歳で曇一から南山律を継ぎ、また常照に従って菩薩戒を受けた。さらに無名に参禅して荷沢宗の印可を得たのち、[[えおん|慧苑]]の弟子の法詵(ほうしん)に華厳宗の教えを受け、その法継を継いだ。<br>
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 澄観は、華厳を学ぶとともに、[[たんねん|堪然]]から[[てんだいしかん|天台止観]]、[[ほっけ|法華]]などを学び、776年に[[ごだいさん|五台山]]に登り、大華厳寺に入って、10年間『華厳経』の註釈を行い『八十華厳経疏』六十巻を著した。
  
 
===著作===
 
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*『華厳経疏』20(60)巻
 
*『華厳経疏』20(60)巻
  
 徳宗・順宗らのために教えを説き、また[[はんにゃさんぞう|般若三蔵]]の『四十華厳』の訳出に参加するなど、「七帝の門師」として活躍し、810年には僧統となった。門下は千人にも及んだが、奥義に達した者は[[そうえい|僧睿]]と[[しゅうみつ|宗密]]の2人だけであったという。
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 徳宗・順宗らのために教えを説き、また[[はんにゃ|般若三蔵]]の『四十華厳』の訳出に参加するなど、「七帝の門師」として活躍し、810年には僧統となった。門下は千人にも及んだが、奥義に達した者は[[そうえい|僧睿]]と[[しゅうみつ|宗密]]の2人だけであったという。
  
 
*『随疏演義鈔』40(90)巻
 
*『随疏演義鈔』40(90)巻

2011年2月2日 (水) 09:15時点における最新版

澄観

738-839 「ちょうがん」とも訓む。中国華厳宗の第四祖で、華厳教学の改革者。字は大休。勅号は清涼(しょうりょう)国師、俗姓は夏侯氏、浙江省会稽の出身。

 9歳のとき禅者の体真に師事し、11歳で出家、20歳で曇一から南山律を継ぎ、また常照に従って菩薩戒を受けた。さらに無名に参禅して荷沢宗の印可を得たのち、慧苑の弟子の法詵(ほうしん)に華厳宗の教えを受け、その法継を継いだ。
 澄観は、華厳を学ぶとともに、堪然から天台止観法華などを学び、776年に五台山に登り、大華厳寺に入って、10年間『華厳経』の註釈を行い『八十華厳経疏』六十巻を著した。

著作

 安史の乱後、五台山に登って大華厳寺に入り、ここで主著をあらわす。

  • 『華厳経疏』20(60)巻

 徳宗・順宗らのために教えを説き、また般若三蔵の『四十華厳』の訳出に参加するなど、「七帝の門師」として活躍し、810年には僧統となった。門下は千人にも及んだが、奥義に達した者は僧睿宗密の2人だけであったという。

  • 『随疏演義鈔』40(90)巻
  • 『貞元華厳経疏』10巻
  • 『法界玄鏡』1巻
  • 『心要』1巻
  • 『三聖円融観』1巻

など