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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

jñāna (S)

 対象をはっきりと決定的に智る心の働き。真理をさとる心の働き。種類として次のようなものが説かれる。
(Ⅰ)2種  有漏智・無漏智、世間智・出世間智、正智・邪智〔『瑜伽師地論』88、T30-793a〕
(Ⅱ)4種  唯無漏智.一向無漏智.一向有漏智・通有漏無漏〔『瑜伽』14、T30-350c〕
(Ⅲ)6種  苦智・集智・滅智・道智・尽智・無生智〔『瑜伽』43、T30-529a〕
(Ⅳ)7種  法智・類智・世俗智・神通智・相智・十力前行智・四道理中正道理智〔『瑜伽』43、T30-529a〕
(V)10種 十智(じっち)〔『倶舎』26、T29-134c以下〕〔『瑜伽』81、T30-751b〕〔『瑜伽』69、T30-680c~681a〕

  1. 世俗智(saṃvṛti-jñāna)  真理をさとっていない世俗の人が世俗の事象を対象としておこす智。
  2. 法智(dharma-jñāna)  存在するもの(法)の真理を証する智。欲界の四諦を対象としておこす智。
  3. 類智(anvaya-jñāna)  法智に類似する智。色界と無色界の四諦を対象としておこす智。種類智ともいう。
  4. 苦智(duḥkha-jñāna)  苦諦にある煩悩を断じる智。
  5. 集智(samudaya-jñāna) 集諦にある煩悩を断じる智。
  6. 滅智(nirodhajñāna)  滅諦にある煩悩を断じる智。
  7. 道智(mārga-jñāna)  道諦にある煩悩を断じる智。
  8. 尽智(kṣaya-jñāna)  一切の煩悩を滅尽したところにおこる智。無学位の聖者が「我れすでに苦を知り、我れすでに集を断じ、我れすでに減を証し、我れすでに道を修す」と自覚する智。有頂地において苦諦と集諦とを観察しておこす智。
  9. 無生智(anutpāda-jñāna)  有頂地の無学の聖者が四諦を完全に証しおえて「我れすでに苦を知る、更に知るべからず、乃至、我れすでに道を修す、更に修すべからず」と自覚する智。
  10. 他心智(paracitta-jñāna)  他者の心を観察してその善悪・邪正などをしる智。

(Ⅵ)13種  聞所生智・思所生智・世間修所生智・勝義智・他心智・法智・種類智・苦智・集智・滅智・道智・尽無生智・大乗智〔『雑集論』3,T31-705b〕

 慧心は法に安んじ之を名づけて忍と為す。境に於いて決断す、之を説いて智と為す。    〔大乗義章9〕
 忍は智を言う。決断を以ての故に。    〔唯識述記9〕

見に対比される智

 両者の相違は種々に説かれるが、たとえば、一つにまとめた教え(総法)を対象として修する箸摩他・毘鉢舎那のなかでの慧を智といい、一つ一つの教え(別法)を対象として修する奢摩他・毘鉢舎那のなかでの慧を見という。

 若縁総法、修奢摩他毘鉢舎那所有妙慧、是名為智。若縁別法、修奢摩他毘鉢舎那所有妙慧、是名為見。〔『瑜伽』77、T30-726b〕

cf.『解深密経』3,T16-700c : 『瑜伽師地論』86、T30-780c~781a

識に対比される智

 識(vijñāna) とは、主・客が対立する二元対立的な虚妄な認識であるのに対して、智(jñāna、prajñā) とは、主・客が未分化の真実の認識をいう。cf. 転識得智

 法随法行を修する時、唯だ智は是れ依にして識にあらず。    〔瑜伽師地論 T30-332b〕
 識を転じて智を得る。

福に対比される智

 詳しくは智を智慧、福を福徳ともいう。人間存在を知性とそれ以外のものとに二分し、知性の面を智、それ以外の人間のよさを福という。たとえば『瑜伽師地論』では、六波羅蜜多を智と福とに分けて、施波羅蜜多・戒波羅蜜多・忍波羅蜜多は福、慧波羅蜜多は智、精進波羅蜜多・静慮波羅蜜多は福と智との2つに通じると説かれる〔『瑜伽』36、T30-485b~c〕。
 『成唯識論』では、『瑜伽論』の所説以外に、六波羅蜜多は総じていえば福徳と智慧の2つに通じ、別していえば前の5つは福徳に、第6の慧波羅蜜多は智慧に属するという説をもあげている〔『成唯識論』9,T31-49a〕。

 諸の菩薩は福に於て智に於て随って一種を闕けば、決定して無上正等菩提を証すること能わず。

眼智妙覚

 三転十二行相の一々の転において生じる4つの認識(眼・智・妙・覚)の一つ。その内容の定義には次の諸説がある。(ⅰ) 〔『婆沙論』の第1説〕。智とは法智。(ⅱ)〔『婆沙論』の第2説〕。智とは決断の義。(ⅲ)〔『瑜伽論』の所説〕。智とは不現見事を能取すること。
cf.『婆沙』79、T27-411a : 『瑜伽』83、T30-761c

十波羅蜜多

 十波羅蜜多のなかの智波羅蜜多の智。受用法楽智と成熟有情智とをいう。
cf. 『成論』9,T31-51b

癡、痴

moha (P)(S)

 愚迷。ものの道理のわからぬこと。愚かな心の暗さ。迷い。愚擬。迷いのはたらき。愚かさ・無知。
 アビダルマでは心作用のうちの 大煩悩地法の一つ。唯識説では根本煩悩の一つ。無明に同じ。また三毒十随眠の一つ。 〔唯識三十頌 T31-60b〕〔成唯識論 T31-31b〕〔大乗起信論 T32-578a〕
cf.煩悩

顛倒なき因果関係(aviparīta-hetu-phala-saṃbandha)に対する無智。

 輪廻の究極の原因は今まで欲望であるとされていたが、そうではなく、その欲望を引き起こすさらに根元的なものがまだ奥に控えている、それは、ふつうの人間が自覚すらできず、したがって、ほとんど抑制不能な根本的な生存欲であると、ゴータマ・ブッダは見たのである。
 その根本的な生存欲を「渇愛」(タンハー、盲目的な生の衝動)とか、「癡」(モ-ハ、迷妄、音写で「莫迦」→「ぼくか」→「ばか」→「馬鹿」)とか、「無明」(アヴィッジャー、根本的な無知)とかと呼んだのである。自覚できないから癡であり無明であり、抑制できないから渇愛なのである。


十二因縁の第一

avijjā; avidyā (P)

 無明と同じ。

asuta (P)

 学問のないこと。〔義足経 T4-176a〕