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ねんぶつ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

念仏

 仏を念ずること。念仏は一般に仏道修行の基本的行法の一とされるが、これには理法としての仏を念ずる法身の念仏と、仏の功徳や仏の相を心に思い浮かべてみる観念の念仏と、仏の名を口に称える称名の念仏(口称念仏)とがある。

初期仏教

 阿含経では、三念、六念、十念の一に数え、梵語では「buddha=anusmṛti」という。仏陀に対する帰敬、礼拝、讃嘆、憶念などの意。念仏によって煩悩を起こさないようになり、天に生まれたり、涅槃を得たりすることができるという。
 念仏とは、サンスクリット語では「buddha-anusmṛti」であり、六念‥‥つまり、念仏、念法、念僧、念戒、念施、念天‥‥の一つとしての念仏の原語である。この場合の念仏は、仏の属性には大慈・大悲・大光明があり、神通も無量であって、それによって、衆生の苦を救うと思い、自分もまたそのような仏とならねばならないと仏を念ずることを意味する。
 念仏については、さらに正しく物を見るために、五停心観という、心を停止する観法ががあり、その中にも「念仏観」がある。この場合の念仏観は、睡眠とか逼迫の障りを対論して心を静止せしめるための方法をいう。
 このように、念仏には、様々な受け取り方がある。

初期大乗

 大乗では、三昧に入って念仏する念仏三昧の法を説き、これによって罪を滅ぼし定中に仏を見るといい、また仏国に生まれたいと願って仏を念ずると仏国に生まれる(念仏往生)という。
 梵文の『阿弥陀経』の中にある念仏・念法・念僧の「念仏」は、初めの原語は「buddha-manasikāra」ブッダ・マナシカーラ、後の方は「buddha-anusmṛti」ブッダ・アヌスムリティで、前者は作意(心を起こす)、後者は憶念(思いうかべる)の意味である。
 また執持名号の原語は「manasikāra」マナシカーラであって、浄土教ではこれを称名と理解しているが、原語からはその意義は見出しにくい。

教理史的には、およそ3つに分けられる。

1.仏隨念

初期の仏教で、仏を憶念することを念仏と言う。仏教の修定とは基本的にすべての意識活動を停止することだが、隨念とは、できない場合に何かの対象に意識を集中することによって、他のすべての意識活動を停止しようとする方法である。仏身(色身)を憶念の対象とする「見仏」、禅定三昧の中で観察する「観想」・「観仏」も念仏とするようになった。

2.念仏三昧

大乗仏教初期には、諸仏の徳を讃嘆し供養することが大切な行とされた。そこで、三昧に入って念仏をすることがその行とされた。

3.称名念仏

中国浄土教になると、念仏には2つの流れができる。

  1. 「観相念仏」(仏の姿を思い浮かべる) 慧遠白蓮社慈愍禅観念仏など
  2. 称名念仏」(仏の名を唱える、いわゆる念仏)
    ことに、善導憶念称名とは同一であると主張して、称名念仏を勧めた。この流れは、日本の法然に受け継がれる。

中国の念仏

 中国では諸師が種々に念仏を分類したが、その中で懐感の『釈浄土群疑論』巻7には念仏三昧に有相・無相があるとし、宗密の『華厳経行願品別行疏鈔』巻4には、称名念・観像念・観相念.実相念(四種念仏)があるとする。
 諸仏に通じて念ずる通の念仏と、特定の仏にかぎって念ずる別の念仏とがある。
 浄土教では「念声是一」(乃至十念の念と下至十声の声とを同じ意味と見る)といって、観念(観相の念仏)よりも称念(称名の念仏)を重んじ、阿弥陀仏の相を観ずるのを観仏、その名を称えるのを念仏とする。阿弥陀仏は念仏する者を極楽に生まれさせるのを本願とするから、本願を信じて称える念仏を本願の念仏といい、これは仏の智慧によって起こされたものであるから智慧の念仏といわれ、愚かなものは本願の念仏によってのみ浄土に生まれることができるから愚鈍念仏という。他の行法をまじえずひたすら称名して浄土を願うのを専修念仏、称名を自己の力でつとめ励まねばならないとするのを自力念仏、仏から与えられた信心の必然的なもよおしとするのを他力念仏という。また称念と観念とをあわせて行うのを事理双修念仏という。

源信の念仏

 源信の『往生要集』巻下末には、念仏する方法に尋常・別時・臨終の3があるとし、尋常念仏は日常の念仏、別時念仏は特定の時期・場所をきめてする念仏、臨終念仏は死をひかえて仏の来迎をまつためにする念仏をいう。
 浄土真宗では平生業成を説くから、別時や臨終の念仏を説かない。

日本の浄土教

 源空門下の鎮西派は念仏を称名の行と解し、通・別の念仏を分けて、通の念仏とはすべての善い行為、あるいは仏と常に離れずにいることとし、別の念仏とは本願の行である称名念仏とする。また念仏を「摩訶止観」の念仏・『往生要集』の念仏・善導勧化の念仏、また諸師所立の念仏・本願の念仏・選択本願の念仏の三つに分ける(三重念仏)。
 西山派は来迎・念仏・定散といって、仏の救済力を来迎、衆生を定散、来迎が定散の上に来て現れたのを念仏とする。
 時宗では名号にうちまかせる端的の一念を念仏とし、これを当体の念仏、三業のほかの念仏、離三業の念仏などという。
 真宗では、念仏を信心とも、称名とも、名号とも解釈するが、称名と解釈するのが普通である。即ち阿弥陀をたのむ信の一念、信後の報恩行としての称名、衆生に信じさせ称えさせるはたらきの根源である名号そのものを、それぞれ念仏とする。
 高弁の『摧邪輪荘厳記』には観念などの念仏を自性念仏、称名などを資糧念仏とする。中古の叡山では約心観仏の説に基づき、覚運などがわが心が即ち仏であるとする観心念仏を説き、享保年間(1716-1736)には天台宗の霊空がほぼ同じような考えから即心念仏を説いて、仏を念じ三諦三観の理を観じて称名念仏することをすすめた。

念仏の種類

 静まった心でおもいを凝してする念仏を定心念仏、日常の乱れた心でする念仏を散心念仏、毎日のつとめとしてする念仏を日課念仏、日常に時・所をえらばずにする念仏を長時の念仏といい、数多く称えるのを多念、一声称えるのを一念、一声一声の称名によって罪を滅ぼすのを念念滅罪という。また『大集経』日蔵分の説によって、大念は大仏を見、小念は小仏を見るという信仰に基づき、大声に称名するのを高声念仏、大念仏といい、融通念仏宗などで行う。

称名の種類

 称名を音楽的に行う仕方には中国の法照によって始められた五会念仏(五音の曲調に寄せて音楽的に五会に分けて念仏する)があり、比叡山では五台山の法道から伝えられたという声を引いて称える引声念仏があり、民間では踊りながら念仏する踊念仏(空也念仏、六斎念仏など)や、念仏や歌曲を節をつけて唱う歌念仏(浮世念仏)があり、時宗でも踊念仏をする。  日本では、比叡山に『般舟三昧経』に基づく常行三昧の不断念仏(常念仏ともいい、一定の日時を定めて昼夜休みなく弥陀の名号を称える)が円仁の頃から行われ、山の念仏といわれた。源空善導の教えに基づき浄土宗を立てて、阿弥陀仏の本願力によって浄土に往生するには念仏の一行が根本であるとした。これを念仏為先、念仏為本、念仏為宗などという。浄土教のことを念仏門、念仏宗などいう。