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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

 
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anumaana अनुमान (skt.)
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<big>anumāna अनुमान</big> (S)
  
インド哲学の用語。
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インド哲学の用語。<br>
 
「推論」の意味であり、認識根拠または認識方法の一つである。
 
「推論」の意味であり、認識根拠または認識方法の一つである。
  
六派哲学の一つニヤーヤ学派によれば、推論は五分(ごぶん)作法という論式の型で示される。<br>
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 六派哲学の一つニヤーヤ学派によれば、推論は五分(ごぶん)作法という論式の型で示される。<br>
 
(1)主張――かの山は火を有するものなり。<br>
 
(1)主張――かの山は火を有するものなり。<br>
 
(2)理由――煙を有するものであるから。<br>
 
(2)理由――煙を有するものであるから。<br>
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(5)結論――ゆえにかの山は火を有するものなり。
 
(5)結論――ゆえにかの山は火を有するものなり。
  
これらの六派哲学の学派との対論の中で、仏教の中にも[[りょう|量]]、つまり判断根拠を論じなくてはならなくなって、主に対論を進めていた[[ゆいしき|唯識]]学派の中で形成されてきた。<br>
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 これらの六派哲学の学派との対論の中で、仏教の中にも[[りょう|量]]、つまり判断根拠を論じなくてはならなくなって、主に対論を進めていた[[ゆいしき|唯識]]学派の中で形成されてきた。<br>
最初は、六派哲学の用語を援用して議論が進んだようだが、次第に仏教の体系を踏まえたも量論が考えられた。<br>
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 最初は、六派哲学の用語を援用して議論が進んだようだが、次第に仏教の体系を踏まえたも量論が考えられた。<br>
そこで、比量とは「推論」ではあるが、推論とは分別のもたらすもので、「論理」とも考えられる。
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 そこで、比量とは「推論」ではあるが、推論とは分別のもたらすもので、「論理」とも考えられる。<br>
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 この[[げんりょう|現量]]と比量の区別を、[[じんな|陳那]]は「他の排除」ということで区別ができると説明している。これを[[あぽーは|アポーハ]]という。
  
対論のためのものであるから、論理の過失を測るために、三十三の過失をまとめて[[さんじゅうさんか|三十三過]]と呼ばれ、ことにこの研究が中国・日本・チベットなどで盛んになった。
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 対論のためのものであるから、論理の過失を測るために、33の過失をまとめて[[さんじゅうさんか|三十三過]]と呼ばれ、ことにこの研究が中国・日本・チベットなどで盛んになった。

2019年12月16日 (月) 08:10時点における最新版

比量

anumāna अनुमान (S)

インド哲学の用語。
「推論」の意味であり、認識根拠または認識方法の一つである。

 六派哲学の一つニヤーヤ学派によれば、推論は五分(ごぶん)作法という論式の型で示される。
(1)主張――かの山は火を有するものなり。
(2)理由――煙を有するものであるから。
(3)実例――なにものでも煙を有するものは火を有するものである。たとえば台所のかまどのごとし。
(4)適用――煙あるかまどのごとく,かの山もまたかくのごとし。
(5)結論――ゆえにかの山は火を有するものなり。

 これらの六派哲学の学派との対論の中で、仏教の中にも、つまり判断根拠を論じなくてはならなくなって、主に対論を進めていた唯識学派の中で形成されてきた。
 最初は、六派哲学の用語を援用して議論が進んだようだが、次第に仏教の体系を踏まえたも量論が考えられた。
 そこで、比量とは「推論」ではあるが、推論とは分別のもたらすもので、「論理」とも考えられる。
 この現量と比量の区別を、陳那は「他の排除」ということで区別ができると説明している。これをアポーハという。

 対論のためのものであるから、論理の過失を測るために、33の過失をまとめて三十三過と呼ばれ、ことにこの研究が中国・日本・チベットなどで盛んになった。