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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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<big>vipaśyanā</big>の音写。「観」と意訳。
 
<big>vipaśyanā</big>の音写。「観」と意訳。
  
 奢摩他とならんでヨーガ(yoga 瑜伽)を構成する2つの要素の一つ。特に〈唯識〉が重要視する修行法。奢摩他を修することによってもたらされる寂静になった心。教えをまちがうことなく正しく観察する心。ある教え(法)の影像を心のなかに浮かべてその真実のありようを正しく追求・観察(正思択・最極思択・周遍尋思・周遍伺察、簡択・最極簡択・極簡択)する心。〈唯識〉は奢摩他・毘鉢舎那(止・観)を修して表層心と深層心とが浄化されることによって解脱すると強調する。たとえば『解深密経』で
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 '''奢摩他'''とならんでヨーガ(yoga 瑜伽)を構成する2つの要素の一つ。特に〈唯識〉が重要視する修行法。'''奢摩他'''を修することによってもたらされる寂静になった心。教えをまちがうことなく正しく観察する心。ある教え(法)の影像を心のなかに浮かべてその真実のありようを正しく追求・[[かんざつ|観察]](正思択・最極思択・周遍尋思・周遍伺察、簡択・最極簡択・極簡択)する心。〈唯識〉は'''奢摩他'''・'''毘鉢舎那'''(止・観)を修して表層心と深層心とが浄化されることによって[[げだつ|解脱]]すると強調する。たとえば『[[げじんみっきょう|解深密経]]』で
   衆生は相の為に縛せられ、及び麁重の為に縛せらるる。要ず[[しかん|止観]]を勤修せよ、爾れぱ乃ち解脱を得ん。〔『解深密経』1,T16-691b〕
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   衆生は相の為に縛せられ、及び[[そじゅう|麁重]]の為に縛せらるる。要ず[[しかん|止観]]を勤修せよ、爾れぱ乃ち解脱を得ん。〔『解深密経』1,T16-691b〕
と説かれる。総じていえば、奢摩他は静まった心、毘鉢舎那は観察する心であり、そのありようは相違するが、その両者を同時に働かせることが理想とされ、それを奢摩他毘鉢舎那和合倶転、奢摩他毘鉢舎那双運転道という。この毘鉢舎那の心のなかの影像が心と異ならないという体験から唯識(vijñaptimātra)という考えが生まれた。<br>
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と説かれる。<br>
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 総じていえば、'''奢摩他'''は静まった心、'''毘鉢舎那'''は観察する心であり、そのありようは相違するが、その両者を同時に働かせることが理想とされ、それを奢摩他毘鉢舎那和合倶転、奢摩他毘鉢舎那双運転道という。この'''毘鉢舎那'''の心のなかの[[ようぞう|影像]]が心と異ならないという体験から[[ゆいしき|唯識]](vijñaptimātra)という考えが生まれた。<br>
 
 すなわち『解深密経』のなかで
 
 すなわち『解深密経』のなかで
   世尊よ諸の毘鉢舎那の三摩地所行の影像は、彼れは此の心と当に異あると言うべきや、異なしと言うべきや。善男子よ、当に異なしと言うべし。何となれば、彼の影像は唯だ是れ識なるに由るが故に。善男子よ、我れ、識の所縁は唯識の所現なりと説くが故なり。〔『解深』3,T16-698a~b〕
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   世尊よ諸の毘鉢舎那の[[さんまじ|三摩地]]所行の影像は、彼れは此の心と当に異あると言うべきや、異なしと言うべきや。善男子よ、当に異なしと言うべし。何となれば、彼の影像は唯だ是れ識なるに由るが故に。善男子よ、我れ、[[しき|識]]の所縁は唯識の所現なりと説くが故なり。〔『解深』3,T16-698a~b〕
と説かれる。教え(法)を思惟し観察することから、法をつけて法毘鉢舎那とよぶことがある。種類としては、有相毘鉢舎那・尋求毘鉢舎那・伺察毘鉢舎那の三種が説かれる〔『解深』3,T16-698c〕。あるいは尽所有性毘鉢舎那・如所有性毘鉢舎那・有
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と説かれる。教え([[ほう|法]])を[[しゆい|思惟]]し観察することから、法をつけて法毘鉢舎那とよぶことがある。種類としては、有相毘鉢舎那・尋求毘鉢舎那・伺察毘鉢舎那の3種が説かれる〔『解深』3,T16-698c〕。あるいは尽所有性毘鉢舎那・如所有性毘鉢舎那・有相毘鉢舎那・思求毘鉢舎那・観察毘鉢舎那の5種が説かれる〔『瑞伽』64、大正30.657c〕。<br>
相毘鉢舎那・思求毘鉢舎那・観察毘鉢舎那の五種が説かれる〔『瑞伽』64、大正30.657c〕。<br>
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cf. [[しんじゅう|心住]]、[[しゃまた|奢摩他]]
 
cf. [[しんじゅう|心住]]、[[しゃまた|奢摩他]]
  
: 如是菩薩、能求奢摩他、彼由獲得身心軽安為所依故、即於如所善思惟法内三摩地所行影像、観察・勝解、捨離心相、即於如是
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: 如是菩薩、能求奢摩他、彼由獲得身心軽安為所依故、即於如所善思惟法内三摩地所行影像、観察・勝解、捨離心相、即於如是三摩地影像所知義中、能正思択・最極思択・周遍尋思・周遍伺察、若忍、若楽、若慧、若見、若観、是名毘鉢舎那。〔『解深』3,T16-698a〕
三摩地影像所知義中、能正思択・最極思択・周遍尋思・周遍伺察、若忍、若楽、若慧、若見、若観、是名毘鉢舎那。〔『解深』3,T16-698a〕
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: 云何毘鉢舎那。謂、諸菩薩、由奢摩他薫修作意、即於如先所思惟法思惟其相、如理簡択・最極簡択・極簡択法、広説乃至覚明慧行、是名毘鉢舎那。(『瑜伽師地論』38、T30-504a〕
 
: 云何毘鉢舎那。謂、諸菩薩、由奢摩他薫修作意、即於如先所思惟法思惟其相、如理簡択・最極簡択・極簡択法、広説乃至覚明慧行、是名毘鉢舎那。(『瑜伽師地論』38、T30-504a〕
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: 於此義中、八次第定、名奢摩他、所有聖慧、名毘鉢舎那。〔『瑜伽』12、T30-340c〕
 
: 於此義中、八次第定、名奢摩他、所有聖慧、名毘鉢舎那。〔『瑜伽』12、T30-340c〕
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: 毘鉢舎那者、謂、簡択諸法、最極簡択、普遍尋思、周審観察。為欲対治鹿重相結故、為欲制伏諸顛倒故、令無倒心善安住故。〔『雑集論』10、T31-741b〕
 
: 毘鉢舎那者、謂、簡択諸法、最極簡択、普遍尋思、周審観察。為欲対治鹿重相結故、為欲制伏諸顛倒故、令無倒心善安住故。〔『雑集論』10、T31-741b〕

2018年10月27日 (土) 21:26時点における版

毘鉢舎那

vipaśyanāの音写。「観」と意訳。

 奢摩他とならんでヨーガ(yoga 瑜伽)を構成する2つの要素の一つ。特に〈唯識〉が重要視する修行法。奢摩他を修することによってもたらされる寂静になった心。教えをまちがうことなく正しく観察する心。ある教え(法)の影像を心のなかに浮かべてその真実のありようを正しく追求・観察(正思択・最極思択・周遍尋思・周遍伺察、簡択・最極簡択・極簡択)する心。〈唯識〉は奢摩他毘鉢舎那(止・観)を修して表層心と深層心とが浄化されることによって解脱すると強調する。たとえば『解深密経』で

 衆生は相の為に縛せられ、及び麁重の為に縛せらるる。要ず止観を勤修せよ、爾れぱ乃ち解脱を得ん。〔『解深密経』1,T16-691b〕

と説かれる。
 総じていえば、奢摩他は静まった心、毘鉢舎那は観察する心であり、そのありようは相違するが、その両者を同時に働かせることが理想とされ、それを奢摩他毘鉢舎那和合倶転、奢摩他毘鉢舎那双運転道という。この毘鉢舎那の心のなかの影像が心と異ならないという体験から唯識(vijñaptimātra)という考えが生まれた。
 すなわち『解深密経』のなかで

 世尊よ諸の毘鉢舎那の三摩地所行の影像は、彼れは此の心と当に異あると言うべきや、異なしと言うべきや。善男子よ、当に異なしと言うべし。何となれば、彼の影像は唯だ是れ識なるに由るが故に。善男子よ、我れ、の所縁は唯識の所現なりと説くが故なり。〔『解深』3,T16-698a~b〕

と説かれる。教え()を思惟し観察することから、法をつけて法毘鉢舎那とよぶことがある。種類としては、有相毘鉢舎那・尋求毘鉢舎那・伺察毘鉢舎那の3種が説かれる〔『解深』3,T16-698c〕。あるいは尽所有性毘鉢舎那・如所有性毘鉢舎那・有相毘鉢舎那・思求毘鉢舎那・観察毘鉢舎那の5種が説かれる〔『瑞伽』64、大正30.657c〕。
cf. 心住奢摩他

 如是菩薩、能求奢摩他、彼由獲得身心軽安為所依故、即於如所善思惟法内三摩地所行影像、観察・勝解、捨離心相、即於如是三摩地影像所知義中、能正思択・最極思択・周遍尋思・周遍伺察、若忍、若楽、若慧、若見、若観、是名毘鉢舎那。〔『解深』3,T16-698a〕
 云何毘鉢舎那。謂、諸菩薩、由奢摩他薫修作意、即於如先所思惟法思惟其相、如理簡択・最極簡択・極簡択法、広説乃至覚明慧行、是名毘鉢舎那。(『瑜伽師地論』38、T30-504a〕
 於此義中、八次第定、名奢摩他、所有聖慧、名毘鉢舎那。〔『瑜伽』12、T30-340c〕
 毘鉢舎那者、謂、簡択諸法、最極簡択、普遍尋思、周審観察。為欲対治鹿重相結故、為欲制伏諸顛倒故、令無倒心善安住故。〔『雑集論』10、T31-741b〕