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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(辟支仏)
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 サンスクリット原語あるいはその俗語形からの音写で、旧訳では一般的である。また「'''縁覚'''」「'''独覚'''」とも漢訳されるように、師なくして独自にさとりを開いた人をいい、[[ぶっきょう|仏教]]や[[じゃいなきょう|ジャイナ教]]でこの名称を用いる。
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 サンスクリット原語あるいはその俗語形からの音写で、旧訳では一般的である。また「[[えんがく|縁覚]]」「[[どっかく|独覚]]」とも漢訳されるように、師なくして独自にさとりを開いた人をいい、[[ぶっきょう|仏教]]や[[じゃいなきょう|ジャイナ教]]でこの名称を用いる。
  
 
 仏教では、十二因縁を観じて理法をさとり、あるいはさまざまな外縁によってさとるゆえに縁覚という。独覚は、仲間をつくって修行する部行独覚と、麒麟の一角の如く独りで道を得る麟角喩独覚とに分ける。大乗仏教ではこの立場を自己中心的なものと考え、[[しょうもん|声聞]]とともに[[にじょう|二乗]]と呼んで下に見る。
 
 仏教では、十二因縁を観じて理法をさとり、あるいはさまざまな外縁によってさとるゆえに縁覚という。独覚は、仲間をつくって修行する部行独覚と、麒麟の一角の如く独りで道を得る麟角喩独覚とに分ける。大乗仏教ではこの立場を自己中心的なものと考え、[[しょうもん|声聞]]とともに[[にじょう|二乗]]と呼んで下に見る。
  
 
 特に[[てんだい|天台]]では、仏の世で十二因縁を観じて覚ったものを「縁覚」、無仏の世で飛花落葉などの外縁を観じて覚ったものを「独覚」と区分している。
 
 特に[[てんだい|天台]]では、仏の世で十二因縁を観じて覚ったものを「縁覚」、無仏の世で飛花落葉などの外縁を観じて覚ったものを「独覚」と区分している。

2023年8月15日 (火) 12:41時点における最新版

辟支仏

pratyeka-buddha、प्रत्येक बुद्ध(S)

 サンスクリット原語あるいはその俗語形からの音写で、旧訳では一般的である。また「縁覚」「独覚」とも漢訳されるように、師なくして独自にさとりを開いた人をいい、仏教ジャイナ教でこの名称を用いる。

 仏教では、十二因縁を観じて理法をさとり、あるいはさまざまな外縁によってさとるゆえに縁覚という。独覚は、仲間をつくって修行する部行独覚と、麒麟の一角の如く独りで道を得る麟角喩独覚とに分ける。大乗仏教ではこの立場を自己中心的なものと考え、声聞とともに二乗と呼んで下に見る。

 特に天台では、仏の世で十二因縁を観じて覚ったものを「縁覚」、無仏の世で飛花落葉などの外縁を観じて覚ったものを「独覚」と区分している。