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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

仏塔崇拝

 塔とはstūpa (S)、thūpa (P)といい、仏の遺品、特に舎利(śarīra, sarīra、遺骨)を安置した建造物のことである。したがって、仏塔崇拝とは、いいかえると(仏)舎利崇拝ということにほかならない。
 仏塔の起源は、伝説によると、釈尊在世中にさかのぼる。すなわち、給孤独長者は釈尊の遊行中も釈尊を偲ぶことができるようにと、釈尊から爪と髪を受け、これを祀る塔を建てて供養したといわれ、 また釈尊自身も迦葉仏の塔を造ったということが伝えられている。これらのことが事実であったかどうかは不明であるが、釈尊の入滅に際して、その遺骨が8分され、各地にその遺骨(および舎利容器と茶毘の灰)を祀る塔が建てられたという伝承は、史実を反映しているものと考えられている。その後、アショーカ王はこの8塔のうちの7つの塔から釈尊の遺骨をすべて集め、あらためて細分して八万四千の塔をインド各地に建てたといわれ、そのうちのいくつかが現に存在していたことは、法顕の『仏国記』(『高僧法顕伝』)や玄奘の『大唐西域記』などにも記されている。『西域記』にはまた、釈尊以外の過去仏や辟支仏、あるいは著名な仏弟子の舎利やそれを祀った塔が崇拝されていたことなども記されており、舎利崇拝が広く行なわれていたことが知られる。
 また、生身の仏の舎利(遺骨)に対して、仏の説かれた教法を法身舎利または法身(舎利)偈というが、この法身に対する供養、あるいはこれ(具体的には経巻)を祀った塔の造営も、のちには行なわれるようになった。なお,塔に類似したものに「支提」(caitya, cetiya)がある。塔と支提の区別は必ずしも分明でなく、ことにのちの時代になると混同されてくるが、普通には舎利(遺骨)を納めたものを塔といい、それのないものを支提と呼んで区別していたようである。


 塔の維持・運営は出家した比丘などには許されず、したがって在家の信者たちが行なっていたらしい。一方、塔への多くの供物は、それを生活の基盤とする人びとの出現を可能とした。そこから、いわば仏塔教団ともいうべき新しい信者の集団が形成され、これらの人びとを有力な推進者に、大乗仏教も興起したと考えられている。大乗仏教の流れは多様で、そのうちの一部、たとえば阿弥陀仏信仰などはやがて仏塔崇拝から離れていったが、逆に『法華経』のように、正法の永遠性を塔によって象徴しようとする経典も現われる。『般若経』は仏塔崇拝よりも経巻崇拝を重視するが、それは仏塔崇拝を否定するものではなく、むしろその重要性を認めたうえで、それを乗り越えようとしたものであった。
 いずれにしても,初期の大乗経典には仏塔崇拝の跡が色濃く反映されており、大乗仏教が仏塔崇拝に密接に関係していたことがうかがわれるのである。


 塔の形態は、律蔵にも規定があるが、欄楯(一種の垣)をめぐらした基壇の上に円柱状の塔身を立て、その上を半円球状の覆鉢で覆い、覆鉢の上には方形の平頭を安置し、さらにその上に盤蓋を立てた、いわゆる覆鉢形が最も古く、また基本的なもので、たとえば、現存最古の塔とされるサーンチーの大塔などはその典型的なものであるが、のちには、時代により、また地方によってさまざまな形の塔が作られた。
 それら各地の塔のうち、東南アジア諸国やネパール、チベット、中央アジアなど、比較的インドに近い諸国に作られたものはまだ覆鉢形の面影を比較的よくとどめているが、中国や日本になると、その原型をほとんどうかがい知ることのできないほどに変形してしまっている。たとえば、日本で最も普通に見られる三重塔や五重塔では、塔 の中心部分としての塔身は基壇から屋根までの各階層の部分に移り、インドの塔の名残りはわずかに屋根の頂上の相輪の部分に残されているのみである。