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 [[じゅうはっかい|十八界]]の一。意識の対象となるすべてのものごと。『倶舎論』1には[[ごうん|五蘊]]のうち受・想・行の3蘊と[[むひょうしき|無表色]]と[[むいほう|無為法]]とを'''法界'''と名づけ、[[じゅうにしょ|十二処]]の中では法処とする。<br>
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 存在するかぎりの存在全体をまとめて法界という。[[ゆいしき|唯識]]では、百の法を立てる。
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:略して法界を説くに、若しくは仮、若しくは実にして、八十七の法あり    〔[[ゆがしじろん|瑜伽師地論]]3、T30-293c〕
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 全存在を18種に分ける(十八界)の中の一つの法界。意識の対象のグループ。<br>
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 全存在を、[[しん|心]]・[[しんじょ|心所]]・[[しき|色]]・[[ふそうおうぎょう|不相応行]]・[[むい|無為]]の[[ごい|五位]]に分ける分類法の中の、無表としての色と心所し不相応行と無為とが法界に相当する。
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==理としての法界==
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 真理を意味する法界。'''唯識'''では、真理を2つに大別する。<br>
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===縁起の理===
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:是の諸の縁起は我の所作に非ず、亦た余の作に非ず。所以は何ん。若し仏が出世するも、若し出世せざるも、法性・法住・法界に安住す。‥‥此の法住に由り彼の法性を以って因と為す。是の故に説いて彼れを名づけて法界と為す。    〔瑜伽師地論10、T30-327c〕
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===真如の理===
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:勝義諦の教とは四聖諦の教と及び真如・実際・法界などの教となり。    〔瑜伽師地論64、T30-654c〕
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:或いは声聞の正性離生に入り、或いは菩薩の正性離生に入り一切法の真なる法界に通達し已って亦た能く阿頼耶識に通達す。    〔瑜伽師地論51、T30-581b〕
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 '''唯識'''では、究極の真理を特に[[しんにょ|真如]]という語で表現するが、法界が真如と同義語で用いられることがある。釈尊の説いた教え〈[[ほう|法]]〉を「法界通流の法」という場合の法界もこの意味である。
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==一法界==
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 『賢首義記』によれば、
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: 一法界とは、即ち無二の真心を一法界と為す。此れ算数の一にあらず。謂く、如理虚融、平等不二なるが故に称して一となす。又、下の依言に二義あるに対するが故に、今は体に約して但だ一と云う。依として聖法を生ずるが故に法界と云う。中辺論〔真諦訳『中辺分別論』巻上、相品第一、T31-452c〕に云く、'''法界とは聖法の因を義と為す'''が故に、是の故に法界と説く。聖法此の境に依りて生ず。此の中の因の義は是れ界の義なるが故なり。
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という。この表現を借りれば、『起信論』における「衆生心」は、一切の聖法(成仏の法) の出生する因(dhātu「界」は因の義) であるから「一法界」といわれ、それが心真如だということになる。
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==経典の語==
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 経典にある言葉を法界と言う場合がある。
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:一切事法を増上する名句文身を説いて名づけて法界と為す    〔瑜伽師地論94、T30-834c〕

2021年12月10日 (金) 21:20時点における最新版

法界

dharma-dhātu (S)

全存在

 十八界の一。意識の対象となるすべてのものごと。『倶舎論』1には五蘊のうち受・想・行の3蘊と無表色無為法とを法界と名づけ、十二処の中では法処とする。
 存在するかぎりの存在全体をまとめて法界という。唯識では、百の法を立てる。

略して法界を説くに、若しくは仮、若しくは実にして、八十七の法あり    〔瑜伽師地論3、T30-293c〕

意識の対象

 全存在を18種に分ける(十八界)の中の一つの法界。意識の対象のグループ。
 全存在を、心所不相応行無為五位に分ける分類法の中の、無表としての色と心所し不相応行と無為とが法界に相当する。

理としての法界

 真理を意味する法界。唯識では、真理を2つに大別する。

縁起の理

是の諸の縁起は我の所作に非ず、亦た余の作に非ず。所以は何ん。若し仏が出世するも、若し出世せざるも、法性・法住・法界に安住す。‥‥此の法住に由り彼の法性を以って因と為す。是の故に説いて彼れを名づけて法界と為す。    〔瑜伽師地論10、T30-327c〕

 

真如の理

勝義諦の教とは四聖諦の教と及び真如・実際・法界などの教となり。    〔瑜伽師地論64、T30-654c〕
或いは声聞の正性離生に入り、或いは菩薩の正性離生に入り一切法の真なる法界に通達し已って亦た能く阿頼耶識に通達す。    〔瑜伽師地論51、T30-581b〕

 唯識では、究極の真理を特に真如という語で表現するが、法界が真如と同義語で用いられることがある。釈尊の説いた教え〈〉を「法界通流の法」という場合の法界もこの意味である。

一法界

 『賢首義記』によれば、

 一法界とは、即ち無二の真心を一法界と為す。此れ算数の一にあらず。謂く、如理虚融、平等不二なるが故に称して一となす。又、下の依言に二義あるに対するが故に、今は体に約して但だ一と云う。依として聖法を生ずるが故に法界と云う。中辺論〔真諦訳『中辺分別論』巻上、相品第一、T31-452c〕に云く、法界とは聖法の因を義と為すが故に、是の故に法界と説く。聖法此の境に依りて生ず。此の中の因の義は是れ界の義なるが故なり。

という。この表現を借りれば、『起信論』における「衆生心」は、一切の聖法(成仏の法) の出生する因(dhātu「界」は因の義) であるから「一法界」といわれ、それが心真如だということになる。

経典の語

 経典にある言葉を法界と言う場合がある。

一切事法を増上する名句文身を説いて名づけて法界と為す    〔瑜伽師地論94、T30-834c〕