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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2018年4月19日 (木) 16:02時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版

abhāva ; asat ; nāstitā (S)

 存在しないもの、ものが存在しない状態、存在しないこと、非存在、非存在性。「」に対する。
 漢語としては、たとえば「無常」(常住でない)の場合のように、「非」「不」などとならんで否定辞として用いられる。インドにおいては一般的に、ものが存在しないことは、それが認識されないことによって知られると考えられている。すなわち、あるものが認識されないことが、それが存在しないことの根拠とされる傾向が強い。

般若経などの説

 そのなかで『般若経』や龍樹の『中論』などは、認識され従って存在するとして実体視されたものは、実はその実体性を欠くなるものであると主張した。それによれば、「無」はものについての否定的な認識判断であるが、「空」「空性」の考えは「無」が一つのものとして実体視されることさえ拒否するもので、有無(うむ)を超えている。その意味で有無を離れたものが空性の立場である。

中国仏教の無

 ところで中国には老荘思想のなかに万物の根源は「無」であるとする考えがある(『老子』(40)「天下万物は有より生じ、有は無より生ず」)。インドの「空」思想は初期の中国仏教においてこの「無」の考えに準じて解釈され(『肇論』(宗本義)のいわゆる「本無」説)、「無」と「空」は同義、一歩進めて、「空」は相対的なレベルに止まるが、「無」は「空」「不空」を超えた絶対的なものと理解された。中国・日本の思想で「無」を重視するのは、この流れを汲んだものであると言える。