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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(馬鳴)
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めみょう、azvaghoSa अश्वघोष (skt.) 生没年不詳
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めみょう、Aśvaghoṣa अश्वघोष (skt.) およそ紀元前100年前後
  
古代インドのサンスクリット仏教詩人。バーラーナシまたはサーケータで生れたと推定される。バラモンの教養を身につけたが、のち仏教に帰依し、ついに菩薩の称号を得て、馬鳴菩薩と呼ばれた。<br>
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 古代インドのサンスクリット仏教詩人。バーラーナシまたはサーケータで生れたと推定される。バラモンの教養を身につけたが、のち仏教に帰依し、ついに菩薩の称号を得て、馬鳴菩薩と呼ばれた。<br>
クシャン王朝のカニシカ王(在位128~153)の知遇を得たという。
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 クシャン王朝のカニシカ王(在位128~153)の知遇を得たという。
  
古典サンスクリット文学興隆の先駆者としてインド文学史上重要な地位を占めている。『[[ブッダチャリタ|仏陀の生涯]]』(buddhacarita)はその代表作で,『端正なるナンダ』(saundaraananda-kaavya)とともに叙事詩作品として名高く、また仏教劇『舎利弗劇』(zaariputraprakaraNa)ほか2篇の断片も中央アジアから発見されている。<br>
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 古典サンスクリット文学興隆の先駆者としてインド文学史上重要な地位を占めている。『[[ブッダチャリタ|仏陀の生涯]]』(Buddhacarita)はその代表作で,『端正なるナンダ』(Saundarānanda-kāvya)とともに叙事詩作品として名高く、また仏教劇『舎利弗劇』(Śāriputraprakaraṇa)ほか2篇の断片も中央アジアから発見されている。<br>
また、[[だいじょうぶっきょう|大乗仏教]]の入門書としても有名な、『[[だいじょうきしろん|大乗起信論]]』の著作もしてる。
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[[だいじょうぶっきょう|大乗仏教]]の入門書としても有名な、『[[だいじょうきしんろん|大乗起信論]]』の著作者としての馬鳴は、上記馬鳴とは別人と考えられ、[[せしん|世親]]とほぼ同世代の人と考えられている。
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 また、馬鳴の作として『金剛針論』(ヴァジュラ・スーチー Vajrasūcī)・『大荘厳論経』の2篇が伝えられるが、この2篇については馬鳴の真作を否定する説も強く、定説をみるにいたってない。
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:インドの馬鳴の作と認めるにしても400-500年頃の同名異人の作とするのが通説となっている。
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 『大乗起信論』の作者は、すでにその中国伝播直後において馬鳴の名に帰せられていた。現存最古の起信論疏とみられる『曇延疏』([[どんえん|曇延]]の生存年代は516-588年) も、論の作者が馬鳴であることを同疏の地の文の中(巻上、卍続蔵1-71~3、265右上)で明記している。しかし、「曇延疏」が使用した『起信論』テキストの題号下には馬鳴菩薩造の記載はなかったようである。それにたいして『浄影疏』の使用した本文テキストの題号下には、「馬鳴菩薩造」と記されていた。浄影寺[[えおん|慧遠]]は、大著『[[だいじょうぎしょう|大乗義章]]』の中でも、『起信論』を馬鳴の論として幅広く依用している。嘉祥大師吉蔵(549-623)も諸著の中で『起信論』を「馬鳴言」「馬鳴論」として、しばしば援引している。その他、「摂大乗論」の学説に精通し、同論の北地開教の功を帰せられた[[どんせん|曇遷]](542-607) の作と推定される『大乗止観法門』も、『起信論』の馬鳴作を認めている。

2021年12月10日 (金) 10:10時点における版

馬鳴

めみょう、Aśvaghoṣa अश्वघोष (skt.) およそ紀元前100年前後

 古代インドのサンスクリット仏教詩人。バーラーナシまたはサーケータで生れたと推定される。バラモンの教養を身につけたが、のち仏教に帰依し、ついに菩薩の称号を得て、馬鳴菩薩と呼ばれた。
 クシャン王朝のカニシカ王(在位128~153)の知遇を得たという。

 古典サンスクリット文学興隆の先駆者としてインド文学史上重要な地位を占めている。『仏陀の生涯』(Buddhacarita)はその代表作で,『端正なるナンダ』(Saundarānanda-kāvya)とともに叙事詩作品として名高く、また仏教劇『舎利弗劇』(Śāriputraprakaraṇa)ほか2篇の断片も中央アジアから発見されている。

馬鳴

大乗仏教の入門書としても有名な、『大乗起信論』の著作者としての馬鳴は、上記馬鳴とは別人と考えられ、世親とほぼ同世代の人と考えられている。

 また、馬鳴の作として『金剛針論』(ヴァジュラ・スーチー Vajrasūcī)・『大荘厳論経』の2篇が伝えられるが、この2篇については馬鳴の真作を否定する説も強く、定説をみるにいたってない。

インドの馬鳴の作と認めるにしても400-500年頃の同名異人の作とするのが通説となっている。

 『大乗起信論』の作者は、すでにその中国伝播直後において馬鳴の名に帰せられていた。現存最古の起信論疏とみられる『曇延疏』(曇延の生存年代は516-588年) も、論の作者が馬鳴であることを同疏の地の文の中(巻上、卍続蔵1-71~3、265右上)で明記している。しかし、「曇延疏」が使用した『起信論』テキストの題号下には馬鳴菩薩造の記載はなかったようである。それにたいして『浄影疏』の使用した本文テキストの題号下には、「馬鳴菩薩造」と記されていた。浄影寺慧遠は、大著『大乗義章』の中でも、『起信論』を馬鳴の論として幅広く依用している。嘉祥大師吉蔵(549-623)も諸著の中で『起信論』を「馬鳴言」「馬鳴論」として、しばしば援引している。その他、「摂大乗論」の学説に精通し、同論の北地開教の功を帰せられた曇遷(542-607) の作と推定される『大乗止観法門』も、『起信論』の馬鳴作を認めている。