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ゆう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2022年4月22日 (金) 09:41時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 ()

vṛtti वृत्तिkṛtya कृत्य倶舎論]、kriyā क्रिया瑜伽論](skt.)。ゆう。

よう」とは読まない点に注意が必要である。

 中国仏教以降使われだした概念で、「はたらき」などのの作用・現象の意味だと考えてよい。「体」と「用」の概念が仏教に由来するかどうかは不明確である。

 生身の仏(釈迦)の場合、すでに釈迦は存在するので、釈迦自身が、無我ではあるが現実に存在しており(体)、その釈迦の言葉や行動が働きとしての「用」と言える。ところが、法身の仏の場合は、この関係が逆になる。さまざまな作用がわたし自身にはたらいている(用)ことを感得した時に、そのはたらきの主体(体)を想定して、それを法身として、その体に名を付けて「○○仏」とするのである。法身に関しては、「○○仏が××のはたらきをする」という言い方こそしているが、用の体を名づけているのだということを忘れてはならない。注意すべきである。
 実は、この体と用の逆転が、大乗仏教の発生の起点だと思われる。この点に注意すべきである。ここを無視すると、「○○仏の存在がある」というように、無我論から外れる。十分注意すべきである。

 因と縁と果との相とは、謂く、若し此れを先と為し、此れを建立と為し、此れと和合するに由るが故に、彼の法が生じ、或いは得し、或いは成じ、或いは辮じ、或いはあり。此れを説いて彼の因と為す。
 五蓋は唯だ欲界に在り。所食と能治とのが同なるが故に、二なりと雖も一蓋を立つ。用とは事用を謂う。亦た功能と名づく。
 眼根と耳根との二根の中、眼根のは遠なるが故に先に説く。

 体用の用。ある存在の自体を体といい、その働きを用という。

受用

paribhoga परिभॊग(skt.)

布施者が僧衆にさまざまなものを施し、僧衆がこれを受けて費やすことをいう。[中論 17.4]
同様の意味で、施されたものを「楽しむ」「享受する」ことをいう。

 己に於て法を以って獲得した如法の衣服・飲食・坐臥具などを衆と同じく用う。