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らやえんぎ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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頼耶縁起

 能蔵と所蔵との関係は、阿頼耶識がその種子のはたらきによって諸法、即ちわれわれの現実の世界を作りつつ(この場合、阿頼耶識の相分〔対境〕としての客観的境界は、種子と、眼・耳・鼻・舌・身の五根によって表された肉体と、山河大地などの器界とであって、これを種根器〈しゅうこんき〉という)、作ることによって逆に諸法から、さらに新しく諸法を創造しようとする種子を自己のうちに転変、変異、成熟させられ、収蔵させられてゆく、という相依相待・展転・縁起の関係であり、執蔵は、このような阿頼耶識転変が、諸法において自己の姿を見ようとする阿頼耶識自らの愛著作用を原動力とすることを語るものである。故に執蔵はまさしく阿頼耶識の自相である。また阿頼耶識は過去における善・不善の業の結果(異熟果報)として引かれたものであって、この点は阿頼耶識の果相であり、従っ て阿頼耶識は異熟識(果報識)と称せられる。
 また阿頼耶識が、諸法を生起する種子を蔵するという点は、その因相であって、この意味において阿頼耶識は一切種識(種子識)と称せられる。これら自相・果相・因相を頼耶の三相という。

 唯識教学は以上のような構造の下に一切を阿頼耶識の変現として、唯心論を樹立する。これは一切が阿頼耶識より縁起すると説くものであるから、頼耶縁起と称する。