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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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(輪廻)
 
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   前際より来りて、彼彼の有と彼彼の趣の中に於て輪廻生死す。
 
   前際より来りて、彼彼の有と彼彼の趣の中に於て輪廻生死す。
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==総論==
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 死後世界への関心は,時代と場所を問わず,全人類に共通で,さまざまな観念とそれにもとづく宗教儀礼,慣習がみられる。輪廻はその一つで,特にインドにおいて著しい発展をみせる。人間の死後の命運については,すでに最古の文献『リグ・ヴェーダ』に言及され,以降,しだいに輪廻説として発展していく軌跡をたどることができる。ヒンドゥー教の中心的観念としてインド文化に多大な影響を与えているのみならず,東南アジア仏教諸国,中国・日本にもさまざまなかたちで生きつづけている。<br>
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 輪廻の基本構造はまず霊魂の存在を前提とする。霊魂は人間存在の本質で永遠不変の実体であり,死によっても滅することがない。一方,人間の行為(karman、[[ごう|業]])はつねにのちのちに影響を及ぼす潜在的力(karman、業または[[ごうりき|業力]])を生む。業力は霊魂が担うものと考えられ,人が死ぬと霊魂は業の[[ぜんあく|善悪]]に応じて,しかるべき世界に生まれかわる。しかし,いかなる生においても,行為(業)は必ずや業力を生むから,霊魂はつねに業力の支配下にあり,(かぎりない)死と再生とを無限に繰り返していく。これが'''輪廻'''である。インド語でサンサーラ(saṃsāra)といい,「流れ」「まわりめぐること」を原意とする.死後に再生する世界は,基本的には,安楽な世界たる「天」(svarga)と,苦の世界を代表する「地獄」(naraka)よりなる。さらに,同じ人間や,各種の動物として生まれかわるという通俗的観念は「人間(manuṣya)」界,「畜生(動物)(tiryañc)」界を成立せしめている。このうち,天は人間社会の快楽を理想化した世界である。ヒンドゥー教の神々はこの世界の住人である。しかし,天界で安楽にすごすべき業がつきると,ここからほかの世界に再生しなければならない.したがって,天は輪廻の一環である.地獄は諸文献にさまざまに描写され,かなり具体的なイメージをもって受けとめられている苦の世界である。業の発現のしかたは,自業自得および業果の必然性を鉄則とする。自らなした行為(業)の影響は自らのうえに現われるべきものであり,しかも,いつかは必ず現われる。今世でなければ来世,またはそれ以降に現われるし,これを逆にみれば,現在の自分の状況は過去(世)の業の結果にほかならない。ここに現実の自己存在をどう評価するのか,また現実社会においてどう対処するかが問われることになる。その一つとして,業・輪廻説が善因楽果,悪因苦果と説かれ,[[いんがおうほう|因果応報]]の考え方と結びつくとき,業・輪廻説は社会倫理を支える一根拠として機能することとなる。<br>
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 しかし,他の民間信仰的諸観念と結びつくとき,上記の鉄則の適用はルーズになることもありうる。たとえば,死者儀礼にお
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いて宗教者を招き,布施し,儀礼を行なって功徳を積み,それを死者霊に回向する慣習はインド以来,仏教文化圏にも広く定着している。死者の赴くべき世界は生前の業により決定されていて,他人の積んだ功徳は無益のはずである。しかし死者儀礼とは,まさに,遺族が死者のよりよき後生を願うために行なうという機能ももっているのであり,功徳回向の観念は業理論と矛盾しながらも共存している。あるいは,困難な状況にぶつかったとき,それを生ぜしめた過去(世)の業をうちまかすために,急遽,善行をなすという行為がありうる。文化人類学者が,ときに,「インスタント・カルマ」と呼ぶものである。各民間信仰的観念はそれぞれに独自の視点と機能をもっているし,相互の論理的整合性を期待する必要はない。しかし,業・輪廻説の日常生活における適応の様態はそうした民間信仰のあり方と密接に関連している。一方インドでは輪廻は[[く|苦]]と受けとられ,これは輪廻の一道程たる現実の世界が苦に満ちているという認識とダブっている。したがって,苦の克服とは,究極的には,宗教的不死を得て輪廻から脱却すること,すなわち[[げだつ|解脱]]であると考えられた。ここに輪廻は実存レベルの宗教思想および行法と密接に関わることとなった。
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==輪廻説の形成==
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 『リグ・ヴェーダ』では,すでに,人間は死後も何らかのかたちで生きのこるという観念が示されている。善良な一般の人間は父祖の道を通って天に赴くと考えられた。兇悪なものは暗黒の世界に住む,というが,再生の経緯は明らかではない。『アタルヴァ・ヴェーダ』では地獄の世界の描写がくわしくなり,最初の死者ヤマ(Yama)の国土が南方の,大地より低い場所に位置づけられ,後世の冥府の先駆的発想を示している。未熟ながらも因果応報の観念が現われるのはブラーフマナ文献においてである。「人は自ら作る世界に生ず」といい,ヤマの罪状審判の思想もある。しかし,死後の世界からさらにどこかへ輪廻する思想はなく,再生の主体に関する考察もいまだ十分とはいえない。現実の死の恐怖が基にあったのであろうが,再生してまたここで死ぬこと,つまり再死の恐れは強く表明されている。そのためにこそ,祭式を行ない,その意義を知ることが再死せず,不死を得る道であると説かれた。<br>
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 輪廻の主体と因果応報の思想は[[ウパニシャッド]]文献の時代に入って確立された。まず,祭式の祭火との関わりで人間が再びこの世にもどるプロセスが「五火説」として説かれた。人が死んで火葬されると霊魂はまず月に行く.次いで雨となって地上に降り,植物の根から吸収されて人間の食物となる。男子が食べた場合,その霊魂は精子となり,最後に母胎に入って再生するという。五火説から発展した「二道説」においては,まず,森林で信仰を[[くぎょう|苦行]](tapas)として信奉するものは,死後,火葬の焔に乗じて天界に行き,神界を含むさまざまな世界を経ながら,ついにはブラフマンの世界に赴いて,再びもどってくることはないという。これを神道という.一方,祭祀と善行を[[ふせ|布施]]として信奉するものは,死後,火葬の煙とともに天界に行き,祖霊界を含む種々な場所を経て月にいたる。この楽土に善行の余力あるかぎりとどまるが,それがつきると雨となって地上に降り,米,麦などの穀物に摂取される.穀物が男性に食されるとその人(の霊体)は精子となり,母胎に入って再生する。これを祖道と名づける。しかし,悪業の人はこの両道いずれにも入りえずといい,第三の場所を説いている。ここには輪廻・業報思想が明らかであり,さらに,タパス(苦行)という実存レベルの修行により輪廻が止み不死を得ることができるという観念が示されている。輪廻の原因として,当時の著名な思想家ヤージュニャヴァルキヤは善悪業によって,善きもの,悪しきものとなるといい,業(karman)の観念を主張した。この思想は「他聞をはばかる秘義」として説かれているから,業と輪廻はこの時代から確固たるかたちをとり始めたものとみていい。輪廻の主体はアートマンとされ,あるウパニシャッドは,身体を離脱したアートマンは,純粋認識の本質を回復するが,明知(vidya)、業(karman)、前世の潜在認識(pūrvaprajñā)がこれに付着して輪廻の当体となることをのべている。こうして業・輪廻説は釈尊の時代(前6ないし5世紀)にはすでに成立していたものと思われる。この思想は一方に宿命論的理解を強要しつつ,他方では現在の不平等な社会状況をたくみに説明し,現在の善行が来世の幸せにつらなるという希望を与えた。この時代以降,この思想は急速に一般化し,叙事詩『マハーバーラタ』の古層では,すでに説明の必要のないものとして定着していたことが示されている。
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==諸学派における輪廻説==
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 インド思想では実存レベルの輪廻説を哲学上の問題としてさまざまに論じている。その中心的テーマは輪廻の主体と原因,そしてそこからの解放,つまり解脱である。たとえば,サーンキヤ(Sāṃkhya)派では純粋精神(puruṣa)と根本物質(prakṛti)の二元論に立つ。前者はアートマンといわれ,知を本質とし,感覚や知覚などのはたらきを可能ならしめるが,自らは無活動である。「自然の活動を照らす光」のごとく,根本物質の活動を「観照」する。根本物質は物質的原理であり,一切の現象はここから開展する。純粋精神と根本物質が結合すると,後者よりまず統覚器官,自我意識が生ずる。自我意識は[[じが|自我]]の観念を生ぜしめるはたらきをもつ。次いで,5種の知覚器官,5種の行動器官,一つの思考器官,そして音・触・色・味・香の5種の微細な要素(五唯)が生ずる。五唯は感覚の対象であるが,実体的要素とみなされ,これは空・風・火・水・地の5の要素の成立と密接に関わっている。現実の個人存在は統覚器官から五唯にいたるまでの各原理により形成される「細身」(linga-śarīra)で,これが業を担い,純粋精神を束縛しつつ輪廻の主体となる。この派では輪廻する死後世界として天,人間,動物の
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3世界を認める。こうしてアートマンたる純粋精神は根本物質に繋縛されるから苦を感じ,輪廻している.繋縛のとけないのは
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無知と愛欲によるのであり,純粋精神,根本物質,そしてそこから開展した現象,の区別を明らかに知ると,純粋精神は本来の
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解脱の状態を回復する。しかし,肉体は業を担っているので,この「生前解脱」は完全ではない。肉体が滅したのちに純粋精神は「離身解脱」し,「独存」(kaivalya)となって輪廻の外に立つ。<br>
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 ヨーガ(Yoga)派の思想は基本的にはサーンキヤ派に近い。認識・心理作用をつかさどる「心」のはたらきは根本物質が開展したもので,ここには煩悩性の作用も含まれる。[[ぼんのう|煩悩]]のなかで最大なのは[[むみょう|無明]](無知)で,これにより業は蓄積され輪廻の原因となる。したがって[[ぜんじょう|禅定]]の修行(ヨーガ)によって煩悩を滅ぼし,心の無秩序なはたらきを止滅させれば,純粋精神は本来の「独存」の状態に復し,輪廻は終滅する。<br>
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 ヴァイシェーシカ(Vaiśeṣika)派では諸現象を観察し,分析して,実体,性質,運動,普遍,特殊,内属という6の原理により世界を説明できると考える。そして,これらの現象のあり方の形式や運動様式などを所有する主体として地・水・火・風・
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[[こくう|虚空]]・[[じかん|時間]]・方角・アートマン・思考器官の9「実体」を認めた。地水火風はそれぞれに性質の異なる原子の結合よりなり,物質存在を成立せしめている。アートマンは知覚や感覚の主体で,「私」という自我観念を生ぜしめる[[じょうじゅう|常住]]の物体と考えられている。本来は清浄だが,つねに欲望と関わる思考のはたらきによって本来のあり方がくらまされ,輪廻の因となっている。したがって,思考のはたらきをおさえ,6原理を研究して物の真の性質を認識することによって解脱する。<br>
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 ヴェーダーンタ(Vedānta)派では,初期のころは,絶対なる存在のブラフマン([[ぼん|梵]])が世界の質量因であると同時に動力因でもあると考えた。ブラフマンは虚空・風・火・水・地を順次に創造し,しかも自らがこの各元素のなかにはいりこむ。したがって,多様なる現象とブラフマンとは別異であって,しかも不異である。多様な諸現象は,終極的には,再びブラフマンに帰入する。個人存在も同様で,ブラフマンと別異にして不異なものだが,業により輪廻しつづけている。個我がブラフマンと合一したときに解脱がある。しかし,この派のシャンカラ(8世紀)になると,ブラフマンはすなわちアートマンであり,このブラフマン-アートマンのみが実在と主張した。現象世界は,個我を含めて,幻(マーヤー,māyā)の所産にすぎない。マーヤーは多様な現象をひきおこして迷わせる力であり,無明に由来する。ちょうど,縄を見て蛇と思い誤るように,無知にブラフマンとアートマンを別のものと思い誤らせ,そのために輪廻する。したがって,ブラフマンがすなわちアートマンにほかならぬことを知るとき,解脱し輪廻は止む。<br>
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 仏教とほぼ同時代に興った[[ジャイナ]]教においても,輪廻の終滅を究極の目標,つまり解脱とみる。初期ジャイナ教では,世
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界は霊魂と非霊魂の二種よりなると主張する。「霊魂」(jīva)は精神作用を本質とする実体である。「非霊魂」とされる範疇には事物を運動させる条件(dharma)、静止させる条件(adharma)、原子よりなる「物質」、そして以上の三者と「霊魂」を存在せしめ,活動せしめる場としての「虚空」の計5の実体を認める。「霊魂」には身・口・意の行為によってつねに業が流入する。この業は微細な物質と考えられ,それが「霊魂」をとりまいて「業身」を生じる。これが輪廻の当体である。輪廻する世界としては人間・神・動物・地獄の4種を認める。新しい業の流入を抑え,すでに付着している業を滅することによって「霊魂」は解脱するが,そのために苦行が実践されなければならない。<br>
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 輪廻を肯定するインドの一般的風潮のなかにあって輪廻を否定する思想,そして宗教グループも存在することは注目していい。すでに釈尊と同時代頃の,いわゆる[[ろくしげどう|六師外道]]のなかには,唯物論的傾向を示すものがいて,輪廻ないし業のはたらきを認めなかった。プーラナ・カッサパ(Pūraṇa Kassapa)はその一人で,いかなる悪または善をなそうとも,その行為の報いは存在しないと主張した。アジタ・ケーサカンバリン(Ajita Kesakambalin)も唯物論者で次のように主張した。万物は地・水・火・風の4元素よりなり,死とは肉体が分解して元素にもどることにほかならない。アートマンもなく,霊魂も存在せず,したがって輪廻もない。彼は宗教,道徳を否定し,現世の快楽追求を教えた。中世以降になるとバクテイ(bhakti、信愛)信仰の系譜のなかに輪廻を否定するものが現われた。バクティとは,ひたすらに絶対者たる神に信と愛をささげゆく実践的思想である。5世紀頃より以降,しだいに活発となり,全インドにさまざまな運動が興った。南インドではヴィシュヌ派のアールウァール(Ālvār)、シヴァ派のナーヤナール(Nāyanār)という一群の行者がいるし、9世紀頃には『バーガヴァタ・プラーナ(Bhāgavata-purāṇa)』が完成して、「愛の宗教」はさらに強力に展開していく。バクティは,神を唯一の絶対者と信じる。神の前では自己は卑小なる存在にすぎないし,己れを空しくして「帰投」(prapatti)しなければならない。神への愛のなかに生きることが大切なのであって,ほかに求めるものはない。現世の欲望もすべてバクティのなかに吸収されるし,天への再生も願う必要がない。この思想の流れでは苦行・沐浴・儀礼・祭祀・巡礼などの形式を否定するものが少なくない。輪廻も否定はせぬまでも,二義的な意味しか認めぬ場合が多い(たとえば,ラーマーナンダ(Rāmānanda:15世紀): カビール(Kabir: 15-16世紀): シク教の開祖ナーナク(Nānak:15-16世紀)など)。輪廻を完全に否定したのは,南印カルナータカと
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マラーター地方でバサヴァ(Basava:12世紀)が唱導したヴィーラ・シヴァ派(Vīra-śaiva)である。シヴァ神の象徴たるリンガ(男根)の小像をつねに身につけるのでリンガーヤタ(Lińgāyata)派ともいう。彼はヴェーダの権威を認めず,輪廻も否定し,一切の形式的宗教儀礼をしりぞける。日常の生活のなかに宗教性を生かすことを心がけ,カースト制も認めなかった。幼児婚を非とし,寡婦の再婚をすすめるなど,合理的社会生活をすすめる。シヴァ神にバクティを捧げるが,それは六段階を経てしだいに高められて,ついに神と合一し,「独存」を得ると説く。
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==仏教==
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 インド世界に成立したものである以上,仏教も業・輪廻説の影響から免れることはできなかった。民間信仰レベルの輪廻観も十分に定着しているし,同時に業・輪廻は教理化され,仏教哲学の体系に組みこまれていった。この際,つねに問題になったのは[[むが|無我]]説との関係だった。上にみたように,インド思想諸派においては,個人存在の本質は「我」(アートマン)ないしそれに類する実体で,それが業を担いつつ輪廻すると説く。しかるに仏教ではこの「我」を否定した。このため,業を担い輪廻する主体と無我説との矛盾を明らかにすることは,インド仏教思想史の大きなテーマの一つとなったといっていい。<br>
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 釈尊は人間の死後の命運について語ることを拒否している(「[[むき|無記]]」)し,再生,輪廻を特に説いてはない。在家信者のあいだに一般的な業・輪廻の観念はあったろうが,あくまでも民間信仰的観念としてであって,釈尊の教と矛盾するものではなかった。しかし,釈尊は業論者といわれ,人間の価値は行為(業)いかんにあることを主張した。この考え方は,輪廻と結びついたかたちでの業を仏教に定着させるに力があったことは疑いない。時代とともに,業・輪廻説は仏教徒の生活文化のなかでの定着の度を増してくる。天に再生することは仏教のめざす[[ねはん|涅槃]]とは異なるものであることを指導者たちは十分に意識していた。しかもなお,在家信者たち,そして修行者たちでさえ,功徳を積み天に生まれることを望み,その価値がオープンに認められていた。施・[[かい|戒]]・生天論のいわゆる「次第説法」の教やジャータカをはじめとする仏教説話文学の物語,あるいは仏塔の奉献銘はこの事実を示している。<br>
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 業・輪廻説の定着につれ,それらはさまざまなかたちで教理化されざるをえなかった。この傾向は時代とともに顕著となる。たとえば,部派仏教各派で業の本質はくわしく論じられた。また,惑([[ぼんのう|煩悩]])が業をひきおこし,その結果,苦なる現象世界が成立するとして,輪廻の構造が教理化されている。輪廻世界として多くの部派は天・人・畜生・[[がき|餓鬼]]・地獄の五道([[ごしゅ|五趣]])を説くが,天の次に阿修羅を入れて六道を主張する派もある。日本では,むしろ,六道輪廻として定着している。仏典に五道(六道)はリアルに説かれている。地獄も八熱地獄,八寒地獄などが示され,一方,天はしだいに階層化された。十七天,ないし二十二天ありと分類され,その最も上は色究竟天で,すなわち輪廻世界(「有」)の頂上であるから有頂天ともいう。有頂天から地獄までの諸世界は階層的に欲界・色界・無色界の[[さんがい|三界]]に配当され,『倶舎論』では須弥山説と結合して壮大な宇宙論を示している。この三界が輪廻世界であり,涅槃すなわち仏の境はこれを脱したさらに上方にあると,考えられている。また,元来,人間の苦の原因を明らめ,その滅尽をはかるための説明形式であった[[じゅうにえんぎ|十二縁起]]は,過去・現在・未来の[[さんぜ|三世]]にわたる輪廻世界のあり方を示すものと解され(「業感縁起」),教理的解釈が加えられるにいたった。<br>
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 輪廻の主体もさまざまなかたちで意識され論じられている。『ミリンダ王問経』(古層は前2世紀に成立)には,次の世に生まれかわる主体について,現在の名称と形態の行なった善悪業から,次生の新しい名称と形態が生じるという。それはちょうど,他人の畑を焼いたとき,自分のつけた火と畑を焼いた火は異なるが,後者は前者から出たものだから放火者の罪は免れないものだという。部派仏教でも[[だいしゅぶ|大衆部]]はプドガラ(人我)を説き,また,一般的には認識機能をつかさどる「[[しき|識]]」を輪廻の主体とみる考え方が強くなっている。「細意識」([[きょうりょうぶ|経量部]])、「根本識」(大衆部)などがその例である。いずれも心作用の分析において意識を持続させる主体であり,これは過去・現在・未来世に拡大して考えられて,実体的ではない輪廻の主体を示そうとするものである。[[せついっさいうぶ|有部]]の『倶舎論』に説く[[ちゅうう|中有]]もこうした傾向のなかに位置づけられていい教理である。中有とは死んだ瞬間の存在(死有)から次に再生するときの生有の中間にある存在で,微細な[[ごうん|五薀]]よりなると説かれる。再生する主体であり,霊魂にほかならない。中有は中陰ともいい,中国・日本では土着の死霊観と習合して中陰法要を発展させた。無我説に背反せぬよう,実体でなくてしかも業を担って輪廻する主体を求めて,インド仏教はついに[[ゆがぎょうゆいしきがくは|唯識瑜伽行派]]の[[あらやしき|アーラヤ識]]にいたった。アーラヤ識とは過去の習慣力をうちにおさめる潜在意識である。このうえにこそ,自我的で主客対立の現象世界が作りだされる。これが苦にみちた輪廻世界にほかならない。したがって,このアーラヤ識が「[[ち|智]]」に「[[てんね|転依]]」し,主客対立がはたらきでなくなったとき[[さとり|悟り]]が生ずる。<br>
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 業・輪廻説は教理学とは別々に,仏教徒(ヒンドゥー教徒も同様だが)のあいだに善因楽果,悪因苦果の考え方を当初から定着させている。個人的にも社会的にも,善をなし悪をさくべき根拠は業・輪廻の考え方から導きだされた。アヴァダーナ文献などの説話文学はそうした状況を反映している。事情は中央アジア,中国においても同様で,因果応報を説く地獄変文,浄土曼荼羅がのこされている。浄土変相図,地獄変相図は寺院の壁に描かれて人びとに悪行を捨て善行をなすべきことを教えた。中有(陰)と習合して祖先崇拝の七七斎が成立,これにさらに百ヶ日,一周忌(小祥忌),三周忌(大祥忌)が加わって十王斎が発展した。後者には十王信仰が関わっている。日本においては,まず,死者儀礼や祖先崇拝儀礼などは日本古来の諸観念に中国伝来の仏教的輪廻観が習合している。また,六道輪廻は,ここでも,倫理的生活と実践をすすめる根拠として定着し,特に浄土系の源信(942-1017)の『往生要集』は地獄の恐ろしさを如実に描いた。以後,地獄は極楽の対極の世界としてポピュラーとなり,地獄草紙や餓鬼草紙のたぐいも多く作られるようになった。しかし,日本の業・輪廻もこうした民間信仰レベルのものとは別に実存レベルで理解される重要な一面をもつ。たとえば六道輪廻を現在自己存在の表象とみたうえで,阿弥陀仏の本願を信じ,[[ねんぶつ|念仏]]により救われることを浄土系では説く。あるいは,輪廻を現在の自己の生死の問題として捉え,毎日の生死のなかに仏たることを現成しつづける(生死即涅槃)ところに輪廻克服の道がひらけると説く禅宗系の教もある。輪廻・業の観念は民間信仰とか実存的宗教実践など,さまざまに異なるレベルで考えられなければならぬものであろう。

2018年8月10日 (金) 11:19時点における最新版

輪廻

saṃsāra (S)

 生まれ変わり死に変わりすること。生と死をくりかえして5つの生存(五趣)をめぐりまわること。原語 saṃsāra は「まわること」を原意とし、生死とも意訳される。
 生死と輪廻とをつづけて生死輪廻・輪廻生死という場合もある。saṃsāra は輪転とも訳されて輪転生死、あるいは淪廻とも訳されて生死淪迴という場合もある。

 諸の有情類は、無始の時よりこのかた、実相に於て無知にして僻執し、を起こしてを発して五趣に輪廻す。
 前際より来りて、彼彼の有と彼彼の趣の中に於て輪廻生死す。

総論

 死後世界への関心は,時代と場所を問わず,全人類に共通で,さまざまな観念とそれにもとづく宗教儀礼,慣習がみられる。輪廻はその一つで,特にインドにおいて著しい発展をみせる。人間の死後の命運については,すでに最古の文献『リグ・ヴェーダ』に言及され,以降,しだいに輪廻説として発展していく軌跡をたどることができる。ヒンドゥー教の中心的観念としてインド文化に多大な影響を与えているのみならず,東南アジア仏教諸国,中国・日本にもさまざまなかたちで生きつづけている。
 輪廻の基本構造はまず霊魂の存在を前提とする。霊魂は人間存在の本質で永遠不変の実体であり,死によっても滅することがない。一方,人間の行為(karman、)はつねにのちのちに影響を及ぼす潜在的力(karman、業または業力)を生む。業力は霊魂が担うものと考えられ,人が死ぬと霊魂は業の善悪に応じて,しかるべき世界に生まれかわる。しかし,いかなる生においても,行為(業)は必ずや業力を生むから,霊魂はつねに業力の支配下にあり,(かぎりない)死と再生とを無限に繰り返していく。これが輪廻である。インド語でサンサーラ(saṃsāra)といい,「流れ」「まわりめぐること」を原意とする.死後に再生する世界は,基本的には,安楽な世界たる「天」(svarga)と,苦の世界を代表する「地獄」(naraka)よりなる。さらに,同じ人間や,各種の動物として生まれかわるという通俗的観念は「人間(manuṣya)」界,「畜生(動物)(tiryañc)」界を成立せしめている。このうち,天は人間社会の快楽を理想化した世界である。ヒンドゥー教の神々はこの世界の住人である。しかし,天界で安楽にすごすべき業がつきると,ここからほかの世界に再生しなければならない.したがって,天は輪廻の一環である.地獄は諸文献にさまざまに描写され,かなり具体的なイメージをもって受けとめられている苦の世界である。業の発現のしかたは,自業自得および業果の必然性を鉄則とする。自らなした行為(業)の影響は自らのうえに現われるべきものであり,しかも,いつかは必ず現われる。今世でなければ来世,またはそれ以降に現われるし,これを逆にみれば,現在の自分の状況は過去(世)の業の結果にほかならない。ここに現実の自己存在をどう評価するのか,また現実社会においてどう対処するかが問われることになる。その一つとして,業・輪廻説が善因楽果,悪因苦果と説かれ,因果応報の考え方と結びつくとき,業・輪廻説は社会倫理を支える一根拠として機能することとなる。
 しかし,他の民間信仰的諸観念と結びつくとき,上記の鉄則の適用はルーズになることもありうる。たとえば,死者儀礼にお いて宗教者を招き,布施し,儀礼を行なって功徳を積み,それを死者霊に回向する慣習はインド以来,仏教文化圏にも広く定着している。死者の赴くべき世界は生前の業により決定されていて,他人の積んだ功徳は無益のはずである。しかし死者儀礼とは,まさに,遺族が死者のよりよき後生を願うために行なうという機能ももっているのであり,功徳回向の観念は業理論と矛盾しながらも共存している。あるいは,困難な状況にぶつかったとき,それを生ぜしめた過去(世)の業をうちまかすために,急遽,善行をなすという行為がありうる。文化人類学者が,ときに,「インスタント・カルマ」と呼ぶものである。各民間信仰的観念はそれぞれに独自の視点と機能をもっているし,相互の論理的整合性を期待する必要はない。しかし,業・輪廻説の日常生活における適応の様態はそうした民間信仰のあり方と密接に関連している。一方インドでは輪廻はと受けとられ,これは輪廻の一道程たる現実の世界が苦に満ちているという認識とダブっている。したがって,苦の克服とは,究極的には,宗教的不死を得て輪廻から脱却すること,すなわち解脱であると考えられた。ここに輪廻は実存レベルの宗教思想および行法と密接に関わることとなった。

輪廻説の形成

 『リグ・ヴェーダ』では,すでに,人間は死後も何らかのかたちで生きのこるという観念が示されている。善良な一般の人間は父祖の道を通って天に赴くと考えられた。兇悪なものは暗黒の世界に住む,というが,再生の経緯は明らかではない。『アタルヴァ・ヴェーダ』では地獄の世界の描写がくわしくなり,最初の死者ヤマ(Yama)の国土が南方の,大地より低い場所に位置づけられ,後世の冥府の先駆的発想を示している。未熟ながらも因果応報の観念が現われるのはブラーフマナ文献においてである。「人は自ら作る世界に生ず」といい,ヤマの罪状審判の思想もある。しかし,死後の世界からさらにどこかへ輪廻する思想はなく,再生の主体に関する考察もいまだ十分とはいえない。現実の死の恐怖が基にあったのであろうが,再生してまたここで死ぬこと,つまり再死の恐れは強く表明されている。そのためにこそ,祭式を行ない,その意義を知ることが再死せず,不死を得る道であると説かれた。
 輪廻の主体と因果応報の思想はウパニシャッド文献の時代に入って確立された。まず,祭式の祭火との関わりで人間が再びこの世にもどるプロセスが「五火説」として説かれた。人が死んで火葬されると霊魂はまず月に行く.次いで雨となって地上に降り,植物の根から吸収されて人間の食物となる。男子が食べた場合,その霊魂は精子となり,最後に母胎に入って再生するという。五火説から発展した「二道説」においては,まず,森林で信仰を苦行(tapas)として信奉するものは,死後,火葬の焔に乗じて天界に行き,神界を含むさまざまな世界を経ながら,ついにはブラフマンの世界に赴いて,再びもどってくることはないという。これを神道という.一方,祭祀と善行を布施として信奉するものは,死後,火葬の煙とともに天界に行き,祖霊界を含む種々な場所を経て月にいたる。この楽土に善行の余力あるかぎりとどまるが,それがつきると雨となって地上に降り,米,麦などの穀物に摂取される.穀物が男性に食されるとその人(の霊体)は精子となり,母胎に入って再生する。これを祖道と名づける。しかし,悪業の人はこの両道いずれにも入りえずといい,第三の場所を説いている。ここには輪廻・業報思想が明らかであり,さらに,タパス(苦行)という実存レベルの修行により輪廻が止み不死を得ることができるという観念が示されている。輪廻の原因として,当時の著名な思想家ヤージュニャヴァルキヤは善悪業によって,善きもの,悪しきものとなるといい,業(karman)の観念を主張した。この思想は「他聞をはばかる秘義」として説かれているから,業と輪廻はこの時代から確固たるかたちをとり始めたものとみていい。輪廻の主体はアートマンとされ,あるウパニシャッドは,身体を離脱したアートマンは,純粋認識の本質を回復するが,明知(vidya)、業(karman)、前世の潜在認識(pūrvaprajñā)がこれに付着して輪廻の当体となることをのべている。こうして業・輪廻説は釈尊の時代(前6ないし5世紀)にはすでに成立していたものと思われる。この思想は一方に宿命論的理解を強要しつつ,他方では現在の不平等な社会状況をたくみに説明し,現在の善行が来世の幸せにつらなるという希望を与えた。この時代以降,この思想は急速に一般化し,叙事詩『マハーバーラタ』の古層では,すでに説明の必要のないものとして定着していたことが示されている。

諸学派における輪廻説

 インド思想では実存レベルの輪廻説を哲学上の問題としてさまざまに論じている。その中心的テーマは輪廻の主体と原因,そしてそこからの解放,つまり解脱である。たとえば,サーンキヤ(Sāṃkhya)派では純粋精神(puruṣa)と根本物質(prakṛti)の二元論に立つ。前者はアートマンといわれ,知を本質とし,感覚や知覚などのはたらきを可能ならしめるが,自らは無活動である。「自然の活動を照らす光」のごとく,根本物質の活動を「観照」する。根本物質は物質的原理であり,一切の現象はここから開展する。純粋精神と根本物質が結合すると,後者よりまず統覚器官,自我意識が生ずる。自我意識は自我の観念を生ぜしめるはたらきをもつ。次いで,5種の知覚器官,5種の行動器官,一つの思考器官,そして音・触・色・味・香の5種の微細な要素(五唯)が生ずる。五唯は感覚の対象であるが,実体的要素とみなされ,これは空・風・火・水・地の5の要素の成立と密接に関わっている。現実の個人存在は統覚器官から五唯にいたるまでの各原理により形成される「細身」(linga-śarīra)で,これが業を担い,純粋精神を束縛しつつ輪廻の主体となる。この派では輪廻する死後世界として天,人間,動物の 3世界を認める。こうしてアートマンたる純粋精神は根本物質に繋縛されるから苦を感じ,輪廻している.繋縛のとけないのは 無知と愛欲によるのであり,純粋精神,根本物質,そしてそこから開展した現象,の区別を明らかに知ると,純粋精神は本来の 解脱の状態を回復する。しかし,肉体は業を担っているので,この「生前解脱」は完全ではない。肉体が滅したのちに純粋精神は「離身解脱」し,「独存」(kaivalya)となって輪廻の外に立つ。
 ヨーガ(Yoga)派の思想は基本的にはサーンキヤ派に近い。認識・心理作用をつかさどる「心」のはたらきは根本物質が開展したもので,ここには煩悩性の作用も含まれる。煩悩のなかで最大なのは無明(無知)で,これにより業は蓄積され輪廻の原因となる。したがって禅定の修行(ヨーガ)によって煩悩を滅ぼし,心の無秩序なはたらきを止滅させれば,純粋精神は本来の「独存」の状態に復し,輪廻は終滅する。
 ヴァイシェーシカ(Vaiśeṣika)派では諸現象を観察し,分析して,実体,性質,運動,普遍,特殊,内属という6の原理により世界を説明できると考える。そして,これらの現象のあり方の形式や運動様式などを所有する主体として地・水・火・風・ 虚空時間・方角・アートマン・思考器官の9「実体」を認めた。地水火風はそれぞれに性質の異なる原子の結合よりなり,物質存在を成立せしめている。アートマンは知覚や感覚の主体で,「私」という自我観念を生ぜしめる常住の物体と考えられている。本来は清浄だが,つねに欲望と関わる思考のはたらきによって本来のあり方がくらまされ,輪廻の因となっている。したがって,思考のはたらきをおさえ,6原理を研究して物の真の性質を認識することによって解脱する。
 ヴェーダーンタ(Vedānta)派では,初期のころは,絶対なる存在のブラフマン()が世界の質量因であると同時に動力因でもあると考えた。ブラフマンは虚空・風・火・水・地を順次に創造し,しかも自らがこの各元素のなかにはいりこむ。したがって,多様なる現象とブラフマンとは別異であって,しかも不異である。多様な諸現象は,終極的には,再びブラフマンに帰入する。個人存在も同様で,ブラフマンと別異にして不異なものだが,業により輪廻しつづけている。個我がブラフマンと合一したときに解脱がある。しかし,この派のシャンカラ(8世紀)になると,ブラフマンはすなわちアートマンであり,このブラフマン-アートマンのみが実在と主張した。現象世界は,個我を含めて,幻(マーヤー,māyā)の所産にすぎない。マーヤーは多様な現象をひきおこして迷わせる力であり,無明に由来する。ちょうど,縄を見て蛇と思い誤るように,無知にブラフマンとアートマンを別のものと思い誤らせ,そのために輪廻する。したがって,ブラフマンがすなわちアートマンにほかならぬことを知るとき,解脱し輪廻は止む。
 仏教とほぼ同時代に興ったジャイナ教においても,輪廻の終滅を究極の目標,つまり解脱とみる。初期ジャイナ教では,世 界は霊魂と非霊魂の二種よりなると主張する。「霊魂」(jīva)は精神作用を本質とする実体である。「非霊魂」とされる範疇には事物を運動させる条件(dharma)、静止させる条件(adharma)、原子よりなる「物質」、そして以上の三者と「霊魂」を存在せしめ,活動せしめる場としての「虚空」の計5の実体を認める。「霊魂」には身・口・意の行為によってつねに業が流入する。この業は微細な物質と考えられ,それが「霊魂」をとりまいて「業身」を生じる。これが輪廻の当体である。輪廻する世界としては人間・神・動物・地獄の4種を認める。新しい業の流入を抑え,すでに付着している業を滅することによって「霊魂」は解脱するが,そのために苦行が実践されなければならない。
 輪廻を肯定するインドの一般的風潮のなかにあって輪廻を否定する思想,そして宗教グループも存在することは注目していい。すでに釈尊と同時代頃の,いわゆる六師外道のなかには,唯物論的傾向を示すものがいて,輪廻ないし業のはたらきを認めなかった。プーラナ・カッサパ(Pūraṇa Kassapa)はその一人で,いかなる悪または善をなそうとも,その行為の報いは存在しないと主張した。アジタ・ケーサカンバリン(Ajita Kesakambalin)も唯物論者で次のように主張した。万物は地・水・火・風の4元素よりなり,死とは肉体が分解して元素にもどることにほかならない。アートマンもなく,霊魂も存在せず,したがって輪廻もない。彼は宗教,道徳を否定し,現世の快楽追求を教えた。中世以降になるとバクテイ(bhakti、信愛)信仰の系譜のなかに輪廻を否定するものが現われた。バクティとは,ひたすらに絶対者たる神に信と愛をささげゆく実践的思想である。5世紀頃より以降,しだいに活発となり,全インドにさまざまな運動が興った。南インドではヴィシュヌ派のアールウァール(Ālvār)、シヴァ派のナーヤナール(Nāyanār)という一群の行者がいるし、9世紀頃には『バーガヴァタ・プラーナ(Bhāgavata-purāṇa)』が完成して、「愛の宗教」はさらに強力に展開していく。バクティは,神を唯一の絶対者と信じる。神の前では自己は卑小なる存在にすぎないし,己れを空しくして「帰投」(prapatti)しなければならない。神への愛のなかに生きることが大切なのであって,ほかに求めるものはない。現世の欲望もすべてバクティのなかに吸収されるし,天への再生も願う必要がない。この思想の流れでは苦行・沐浴・儀礼・祭祀・巡礼などの形式を否定するものが少なくない。輪廻も否定はせぬまでも,二義的な意味しか認めぬ場合が多い(たとえば,ラーマーナンダ(Rāmānanda:15世紀): カビール(Kabir: 15-16世紀): シク教の開祖ナーナク(Nānak:15-16世紀)など)。輪廻を完全に否定したのは,南印カルナータカと マラーター地方でバサヴァ(Basava:12世紀)が唱導したヴィーラ・シヴァ派(Vīra-śaiva)である。シヴァ神の象徴たるリンガ(男根)の小像をつねに身につけるのでリンガーヤタ(Lińgāyata)派ともいう。彼はヴェーダの権威を認めず,輪廻も否定し,一切の形式的宗教儀礼をしりぞける。日常の生活のなかに宗教性を生かすことを心がけ,カースト制も認めなかった。幼児婚を非とし,寡婦の再婚をすすめるなど,合理的社会生活をすすめる。シヴァ神にバクティを捧げるが,それは六段階を経てしだいに高められて,ついに神と合一し,「独存」を得ると説く。

仏教

 インド世界に成立したものである以上,仏教も業・輪廻説の影響から免れることはできなかった。民間信仰レベルの輪廻観も十分に定着しているし,同時に業・輪廻は教理化され,仏教哲学の体系に組みこまれていった。この際,つねに問題になったのは無我説との関係だった。上にみたように,インド思想諸派においては,個人存在の本質は「我」(アートマン)ないしそれに類する実体で,それが業を担いつつ輪廻すると説く。しかるに仏教ではこの「我」を否定した。このため,業を担い輪廻する主体と無我説との矛盾を明らかにすることは,インド仏教思想史の大きなテーマの一つとなったといっていい。
 釈尊は人間の死後の命運について語ることを拒否している(「無記」)し,再生,輪廻を特に説いてはない。在家信者のあいだに一般的な業・輪廻の観念はあったろうが,あくまでも民間信仰的観念としてであって,釈尊の教と矛盾するものではなかった。しかし,釈尊は業論者といわれ,人間の価値は行為(業)いかんにあることを主張した。この考え方は,輪廻と結びついたかたちでの業を仏教に定着させるに力があったことは疑いない。時代とともに,業・輪廻説は仏教徒の生活文化のなかでの定着の度を増してくる。天に再生することは仏教のめざす涅槃とは異なるものであることを指導者たちは十分に意識していた。しかもなお,在家信者たち,そして修行者たちでさえ,功徳を積み天に生まれることを望み,その価値がオープンに認められていた。施・・生天論のいわゆる「次第説法」の教やジャータカをはじめとする仏教説話文学の物語,あるいは仏塔の奉献銘はこの事実を示している。
 業・輪廻説の定着につれ,それらはさまざまなかたちで教理化されざるをえなかった。この傾向は時代とともに顕著となる。たとえば,部派仏教各派で業の本質はくわしく論じられた。また,惑(煩悩)が業をひきおこし,その結果,苦なる現象世界が成立するとして,輪廻の構造が教理化されている。輪廻世界として多くの部派は天・人・畜生・餓鬼・地獄の五道(五趣)を説くが,天の次に阿修羅を入れて六道を主張する派もある。日本では,むしろ,六道輪廻として定着している。仏典に五道(六道)はリアルに説かれている。地獄も八熱地獄,八寒地獄などが示され,一方,天はしだいに階層化された。十七天,ないし二十二天ありと分類され,その最も上は色究竟天で,すなわち輪廻世界(「有」)の頂上であるから有頂天ともいう。有頂天から地獄までの諸世界は階層的に欲界・色界・無色界の三界に配当され,『倶舎論』では須弥山説と結合して壮大な宇宙論を示している。この三界が輪廻世界であり,涅槃すなわち仏の境はこれを脱したさらに上方にあると,考えられている。また,元来,人間の苦の原因を明らめ,その滅尽をはかるための説明形式であった十二縁起は,過去・現在・未来の三世にわたる輪廻世界のあり方を示すものと解され(「業感縁起」),教理的解釈が加えられるにいたった。
 輪廻の主体もさまざまなかたちで意識され論じられている。『ミリンダ王問経』(古層は前2世紀に成立)には,次の世に生まれかわる主体について,現在の名称と形態の行なった善悪業から,次生の新しい名称と形態が生じるという。それはちょうど,他人の畑を焼いたとき,自分のつけた火と畑を焼いた火は異なるが,後者は前者から出たものだから放火者の罪は免れないものだという。部派仏教でも大衆部はプドガラ(人我)を説き,また,一般的には認識機能をつかさどる「」を輪廻の主体とみる考え方が強くなっている。「細意識」(経量部)、「根本識」(大衆部)などがその例である。いずれも心作用の分析において意識を持続させる主体であり,これは過去・現在・未来世に拡大して考えられて,実体的ではない輪廻の主体を示そうとするものである。有部の『倶舎論』に説く中有もこうした傾向のなかに位置づけられていい教理である。中有とは死んだ瞬間の存在(死有)から次に再生するときの生有の中間にある存在で,微細な五薀よりなると説かれる。再生する主体であり,霊魂にほかならない。中有は中陰ともいい,中国・日本では土着の死霊観と習合して中陰法要を発展させた。無我説に背反せぬよう,実体でなくてしかも業を担って輪廻する主体を求めて,インド仏教はついに唯識瑜伽行派アーラヤ識にいたった。アーラヤ識とは過去の習慣力をうちにおさめる潜在意識である。このうえにこそ,自我的で主客対立の現象世界が作りだされる。これが苦にみちた輪廻世界にほかならない。したがって,このアーラヤ識が「」に「転依」し,主客対立がはたらきでなくなったとき悟りが生ずる。
 業・輪廻説は教理学とは別々に,仏教徒(ヒンドゥー教徒も同様だが)のあいだに善因楽果,悪因苦果の考え方を当初から定着させている。個人的にも社会的にも,善をなし悪をさくべき根拠は業・輪廻の考え方から導きだされた。アヴァダーナ文献などの説話文学はそうした状況を反映している。事情は中央アジア,中国においても同様で,因果応報を説く地獄変文,浄土曼荼羅がのこされている。浄土変相図,地獄変相図は寺院の壁に描かれて人びとに悪行を捨て善行をなすべきことを教えた。中有(陰)と習合して祖先崇拝の七七斎が成立,これにさらに百ヶ日,一周忌(小祥忌),三周忌(大祥忌)が加わって十王斎が発展した。後者には十王信仰が関わっている。日本においては,まず,死者儀礼や祖先崇拝儀礼などは日本古来の諸観念に中国伝来の仏教的輪廻観が習合している。また,六道輪廻は,ここでも,倫理的生活と実践をすすめる根拠として定着し,特に浄土系の源信(942-1017)の『往生要集』は地獄の恐ろしさを如実に描いた。以後,地獄は極楽の対極の世界としてポピュラーとなり,地獄草紙や餓鬼草紙のたぐいも多く作られるようになった。しかし,日本の業・輪廻もこうした民間信仰レベルのものとは別に実存レベルで理解される重要な一面をもつ。たとえば六道輪廻を現在自己存在の表象とみたうえで,阿弥陀仏の本願を信じ,念仏により救われることを浄土系では説く。あるいは,輪廻を現在の自己の生死の問題として捉え,毎日の生死のなかに仏たることを現成しつづける(生死即涅槃)ところに輪廻克服の道がひらけると説く禅宗系の教もある。輪廻・業の観念は民間信仰とか実存的宗教実践など,さまざまに異なるレベルで考えられなければならぬものであろう。