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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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 [[あびだつま|阿毘達磨]]の教義では、惑は[[けんわく|見惑]]と[[しゅわく|修惑]]([[しわく|思惑]]ともいう)の二つに大別され、見惑は見道で、修惑は修道で断ぜられるとする。
 
 [[あびだつま|阿毘達磨]]の教義では、惑は[[けんわく|見惑]]と[[しゅわく|修惑]]([[しわく|思惑]]ともいう)の二つに大別され、見惑は見道で、修惑は修道で断ぜられるとする。
  
   よく所縁に惑う故に、称して惑となす。     〔大乗義章5本〕
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   能惑所縁。故稱爲惑。よく所縁に惑う故に、称して惑となす。     〔大乗義章5本 T44-561c〕

2017年5月5日 (金) 06:33時点における版

kleśa (S)

 迷妄の心。所対の境に迷って、事理顛倒することを「惑」と言う。
 まどわすもの。迷い、また迷いのもとになるもの。対象に迷い、まどわされ、事理を正しく認識することが出来ない迷妄の心をいい、煩悩と同じ。「惑」によって悪業が生じ、その悪業が因となって苦果を生じる輪廻のあり方を「惑業苦」または「三道」という。

 阿毘達磨の教義では、惑は見惑修惑思惑ともいう)の二つに大別され、見惑は見道で、修惑は修道で断ぜられるとする。

 能惑所縁。故稱爲惑。よく所縁に惑う故に、称して惑となす。     〔大乗義章5本 T44-561c〕