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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(仏教遺跡)
 
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===歴史===
 
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 アフガニスタン(Afghaanistaan)とは、「アフガン人の地」の意で、その領域が現在の形をとったのは19世紀末である。<br>
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 アフガニスタン(Afghānistān)とは、「アフガン人の地」の意で、その領域が現在の形をとったのは19世紀末である。<br>
 この地は、中央アジア、西アジア、インドを結ぶ交通の要衝であり、古代から諸民族・諸文明の交点となっていた。前2千~前1千年にアーリヤ系民族の移住が行われ、前6世紀にはアケメネス朝ペルシアに属した。<br>
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 この地は、中央アジア、西アジア、インドを結ぶ交通の要衝であり、古代から諸民族・諸文明の交点となっていた。前2千~前1千年にアーリヤ系民族の移住が行われ、前6世紀にはアケメネス朝ペルシアに属した。<br>
 アレクサンドロス大王の東征以後、ギリシア・ヘレニズム文化の影響をうけ、これは、バクトリア王国支配(前3~前2世紀)をへて、クシャーナ朝時代に、仏教文化と融合したガンダーラ美術となって結実する。クシャーナ朝は、カニシカ王時代に北インド・アフガニスタンを中心に東西を結ぶ一大版図をつくりあげるが、アフガニスタンは4世紀中ごろにササン朝の支配に服し、5世紀には一時エフタルの侵入をこうむった。<br>
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 アレクサンドロス大王の東征以後、ギリシア・ヘレニズム文化の影響をうけ、これは、バクトリア王国支配(前3~前2世紀)をへて、クシャーナ朝時代に、仏教文化と融合したガンダーラ美術となって結実する。クシャーナ朝は、カニシカ王時代に北インド・アフガニスタンを中心に東西を結ぶ一大版図をつくりあげるが、アフガニスタンは4世紀中ごろにササン朝の支配に服し、5世紀には一時エフタルの侵入をこうむった。<br>
 アフガニスタンに、イスラム勢力が入ってきたのは7世紀後半で、その当時は少数の改宗者を出しただけで、仏教やゾロアスター教などの信者がなお多くいた。9世紀のターヒル朝、サッファール朝などのイスラム政権の下で、信者はしだいにふえていった。その次のサーマーン朝(875-999)の下で、近世ペルシア語とその文化が栄え、それはガズナ朝(977-1186)に受け継がれた。ガズナに都したこの王朝は、アフガニスタンの地における最初のイスラム王朝で、ペルシア文化を保護するとともに、北インドへの侵入をくりかえして、その地のイスラム化を促進した。ペルシア語長編叙事詩『シャー・ナーメ』の作者フィルドゥーシー、『インド誌』のビールーニーは、この時代の人である。
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 アフガニスタンに、イスラム勢力が入ってきたのは7世紀後半で、その当時は少数の改宗者を出しただけで、仏教やゾロアスター教などの信者がなお多くいた。9世紀のターヒル朝、サッファール朝などのイスラム政権の下で、信者はしだいにふえていった。その次のサーマーン朝(875-999)の下で、近世ペルシア語とその文化が栄え、それはガズナ朝(977-1186)に受け継がれた。ガズナに都したこの王朝は、アフガニスタンの地における最初のイスラム王朝で、ペルシア文化を保護するとともに、北インドへの侵入をくりかえして、その地のイスラム化を促進した。ペルシア語長編叙事詩『シャー・ナーメ』の作者フィルドゥーシー、『インド誌』のビールーニーは、この時代の人である。
  
 982年に作られたペルシア語地理書『世界の諸地域』によると、「アフガン」人がスレイマン山脈中に住んでいるとある。またガズナ朝の軍隊の中で「アフガン」人が一部隊を編成していた。彼らは山地からしだいに西方の平地、ガズナ、カンダハール方面へ拡大していった。また同書には、ハラジュ・トゥルク(Khalaj Turk)と呼ばれるものがガズナ付近に住んでいたとある。彼らはもとトルキスタンにいたのが南下して来たものである。その一部はインドに進んで、デリーを中心にハルジー朝を建てた。ガズナ付近に残ったものは「アフガン」と同化し、その言語パシュトゥー語を採用し、以後アフガンと同族と見なされ、ギルザイの名で呼ばれるようになる。現在、アフガン族は自らを「パシュトゥーン」と称する。この名は16世紀ごろに始まり、その複数「パシュターナ」から「パターン」の語ができて、インド側からはこの名で呼ばれている。<br>
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 982年に作られたペルシア語地理書『世界の諸地域』によると、「アフガン」人がスレイマン山脈中に住んでいるとある。またガズナ朝の軍隊の中で「アフガン」人が一部隊を編成していた。彼らは山地からしだいに西方の平地、ガズナ、カンダハール方面へ拡大していった。また同書には、ハラジュ・トゥルク(Khalaj Turk)と呼ばれるものがガズナ付近に住んでいたとある。彼らはもとトルキスタンにいたのが南下して来たものである。その一部はインドに進んで、デリーを中心にハルジー朝を建てた。ガズナ付近に残ったものは「アフガン」と同化し、その言語パシュトゥー語を採用し、以後アフガンと同族と見なされ、ギルザイの名で呼ばれるようになる。現在、アフガン族は自らを「パシュトゥーン」と称する。この名は16世紀ごろに始まり、その複数「パシュターナ」から「パターン」の語ができて、インド側からはこの名で呼ばれている。<br>
  
 
===文化===
 
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2016年12月27日 (火) 11:37時点における最新版

アフガニスタン

Afghanistan、(正式名称:アフガニスタン・イスラム国(Dowlat-e Eslaamii-ye Afgaanestaan))
面積:65万2225㎞2
人口(1996):1190万人
首都:カーブル(Kaabul)(日本との時差=-5時間)
主要言語:パシュト語、ペルシア語(ダリー語)
通貨:アフガニ(Afghani)
アジア大陸のほぼ中央部に位置し、北緯29゚30'から38゚30'まで、東経60゚30'から75゚にわたる地域を占める。北はトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン3国、西はイラン、東と南はパキスタン、北東は中国と、それぞれ接している。

地誌

 海に面していない内陸国で、海外への通路はパキスタンを経由する。この国の北東から南西にかけてヒンドゥークシュ山脈が走っている。平野はヒンドゥークシュ山脈の北または南にあり、北のそれはアフガン・トルキスタンと呼ばれ、トルキスタン地方に連続している。集落の高度は標高約400mから2600mに及ぶ。
 主要河川は、中央山地に源を発し、東流してパキスタンに入ってインダス川に注ぐカーブル川、同じく中央山地に発して南西に流れ、イランとの国境付近の湖に注ぐヘルマンド川(Helmand)、西流してヘラートの地名の起源となったハリー・ルード川(Harii Ruud)、およびパミールから流れ出て、その上流部がタジキスタン、ウズベキスタンとの国境をなすアム・ダリヤなどがある。
 ヒンドゥークシュ山脈を南北に越えるおもな峠としては、カーブル寄りには、アレクサンドロス大王や玄奘が通ったハーワーク峠(Khaawak、3600m)、シバル峠(Shibar、3260m)、サーラング峠(Saalang、4075m)がある。西方、ヘラート寄りにはパロパミスス山脈を越えるサブザク峠(Sabzak、2500m)がある。
 気候は乾燥しており、寒暑の差が大きい。首都カーブルでは、気温の最高月は6月で32.1℃、最低月は12月で-8.3℃である。湿度の最高は2月の76%、最低は8月の25%である。年雨量は318.4mm、雨季は2~4月の3ヵ月である。山岳地帯であるため、例えばトルキスタンはカーブルより北にあるが、標高が低いため気温は高い。

民族

 人口の約半数がパシュトゥーン(アフガンもしくはパターン(Pathaan)と呼ばれる)族で、南東部山地を故地とし、ほぼ同数が地続きのパキスタン北西部に住んでいる。建国以来この民族が支配している。
 人口と勢力においてパシュトゥーン族に次ぐのがタジク族(構成比約30%)で、全国各地に住み、ペルシァ語を母語とする。
 アフガニスタン・トルキスタンの主要な住民はウズベク族とトルクメン族で、チュルク系の言語を用いる。
 中央高地たるハザーラジャートの住民はモンゴル的容貌のハザーラ族である。
 そのほか特異な民族として、今なおモンゴル語を保存しているモゴール族、東部山地の住民で19世紀後半にイスラムに強制的に改宗させられたヌーリー族(Nuurii)、西部のチャハール・アイマーク族がある。

歴史

 アフガニスタン(Afghānistān)とは、「アフガン人の地」の意で、その領域が現在の形をとったのは19世紀末である。
 この地は、中央アジア、西アジア、インドを結ぶ交通の要衝であり、古代から諸民族・諸文明の交点となっていた。前2千~前1千年にアーリヤ系民族の移住が行われ、前6世紀にはアケメネス朝ペルシアに属した。
 アレクサンドロス大王の東征以後、ギリシア・ヘレニズム文化の影響をうけ、これは、バクトリア王国支配(前3~前2世紀)をへて、クシャーナ朝時代に、仏教文化と融合したガンダーラ美術となって結実する。クシャーナ朝は、カニシカ王時代に北インド・アフガニスタンを中心に東西を結ぶ一大版図をつくりあげるが、アフガニスタンは4世紀中ごろにササン朝の支配に服し、5世紀には一時エフタルの侵入をこうむった。
 アフガニスタンに、イスラム勢力が入ってきたのは7世紀後半で、その当時は少数の改宗者を出しただけで、仏教やゾロアスター教などの信者がなお多くいた。9世紀のターヒル朝、サッファール朝などのイスラム政権の下で、信者はしだいにふえていった。その次のサーマーン朝(875-999)の下で、近世ペルシア語とその文化が栄え、それはガズナ朝(977-1186)に受け継がれた。ガズナに都したこの王朝は、アフガニスタンの地における最初のイスラム王朝で、ペルシア文化を保護するとともに、北インドへの侵入をくりかえして、その地のイスラム化を促進した。ペルシア語長編叙事詩『シャー・ナーメ』の作者フィルドゥーシー、『インド誌』のビールーニーは、この時代の人である。

 982年に作られたペルシア語地理書『世界の諸地域』によると、「アフガン」人がスレイマン山脈中に住んでいるとある。またガズナ朝の軍隊の中で「アフガン」人が一部隊を編成していた。彼らは山地からしだいに西方の平地、ガズナ、カンダハール方面へ拡大していった。また同書には、ハラジュ・トゥルク(Khalaj Turk)と呼ばれるものがガズナ付近に住んでいたとある。彼らはもとトルキスタンにいたのが南下して来たものである。その一部はインドに進んで、デリーを中心にハルジー朝を建てた。ガズナ付近に残ったものは「アフガン」と同化し、その言語パシュトゥー語を採用し、以後アフガンと同族と見なされ、ギルザイの名で呼ばれるようになる。現在、アフガン族は自らを「パシュトゥーン」と称する。この名は16世紀ごろに始まり、その複数「パシュターナ」から「パターン」の語ができて、インド側からはこの名で呼ばれている。

文化

 アフガニスタンは多民族国家で、各民族は自らの母語をもっている。パシュトゥーン族はパシュト語(パシュトゥー語とも)、タジク族はペルシア語、ウズベク族はウズベク語、トルクメン族はトルクメン語、ハザーラ族はペルシア語である。これらのうちペルシア語(公式にはダリーDarii語と呼ばれる)とパシュト語が国語として認められている。ともにインド・ヨーロッパ語族のイラン語派に属し、アラビア文字で表記される。ペルシア語はパシュト語よりも圧倒的に豊富な文献をもっているため、書写語としてはほとんどこれだけが用いられ、また共通語として国内どこででも通用する。アフガニスタンのペルシア語はイランのそれと古典を共有するが、現代口語ではかなりの相違がある。住民の容貌は民族によってまた個人によってかなりの違いがある。服装も民族や地域や階層によりさまざまである。西洋的服装は一般的ではない。

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