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サンスカーラ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2022年8月15日 (月) 11:24時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (一般的意味――浄法)

サンスカーラ

saṃskāra (S), saṃkhāra (P)

語義

 「精製」「完成」「仕上げ」「浄化」を意味する動詞 saṃs-√kṛ からつくられた名詞で、 saṃskṛta(saṃskṛtā bhāṣā、 サンスクリット語)も、これと同じ動詞の過去分詞である。天然自然のまま(prākṛta)の素材に手を加えて、仕上げを施し、さらにそれに飾りつけを加えて、浄く、美しいものに仕立てあげるというのがこの語の本来の意味で、「化粧」「模様づけ」「訓練」「教育」「陶冶」などの諸義がこれより派生している。さらに、宗教的文脈においては「聖別」、また知識論を説く哲学的文脈においては、脳裏にきざみこまれる、「潜在印象」(vāsanā、bhāvanā)の義に用いられる。

一般的意味――浄法

 より一般的には古代インド・アリアン人の上層階級の人たちが、母胎に宿ってから死にいたるまで、一生のあいだの重要な節目において受けるべき、一連の社会的・宗教的儀式、すなわち浄法を意味している。これらの儀式そのものはヴェーダ文献末期より行なわれ、その数は一定せず、40種とも25種ともいわれるが、通常は主要なものに12を数え、そのうちのあるものは現代にも執行されている。以下に主要なもののみ簡単に解説する。

  • 授胎式(garbhādhāna、結婚後4日目、懐妊を祈って夫婦の契を結ぶ儀式)
  • 生男式(puṃsavana、妊娠3ヶ月目に男子の出生をねがうもの)
  • 生誕式(jātakarman、子供の誕生直後に行なわれる)
  • 命名式(nāmakaraṇa、誕生後、10日目か12日目に行なう)
  • 出遊式(niṣkramaṇa、生後4ヶ月目の初外出)
  • 食初式(annaprāśana、生後6ヶ月目の固形物授与式)
  • 入門式(upanayana、階級により年齢を異にするが少年が師家に入ってヴェーダを学ぶ)
  • 帰家式(samāvartana、12年の学生生活を卒えて家庭に帰る)
  • 結婚式(vivāha、古来8種ありと法典に規定されている)
  • 葬式(antyakarman)

 それぞれ人生の重要な節目にこれら儀式を執行して、受式者に次の儀式にいたるまでのあいだの潜在的推進力を賦与し、もって受式者に社会的責任、個人的自覚を促すに力あったものであろう。宗教的には「浄め」の儀式ではあるが、儀式執行の残存作用、潜勢的構成力への信仰がその基底にあったものと思われる。
 仏教ではこの語は、過去の所行ないしは経験より生じ、その意味では結果であるが、同時に未来に新しい状況を生みだしかつは規定する原因の意味をもつ特殊な術語となった。漢訳仏典では通常「行」と訳されている。
 十二縁起説では、その第二支に現われ、無明(avidyā)より生じ、さらに(vijñāna)の因としてそれを条件づけるものとされている。

仏教における用法

 サンスカーラ(行)は、まず、「集め造るはたらき」、いわば「形成力」を意味するが、仏教では常住不変なる存在は認められないので、主宰神などを指すことはない。
 因・縁となる諸条件を集めて結果・現象を成立させる・はたらき、つまりはえんぎ縁起のはたらきを指し、加えて、そのはたらきを有するもの、因となるものを意味するのである。それゆえ、サンスカーラは、思(cetanā、意志作用)、つまり心が他に対して積極的にはたらきかけること、さらには、思を含む心作用一般をも意味するのであり、この思自体または思を源とするものたる(karman)、輪廻の生存全体を形成する因である行為と同義語となる。そして、以上の点において、サンスカーラは、四諦中の「集(苦集)」とも同義語となる。
 また、サンスカーラ(行)は、十二縁起の「無明一行一識一…」(惑一業一苦)において、その一面が示されるように、その力または因によって形成されたもの、すなわち縁起された結果をも意味するので、この場合、有為(saṃskṛta) とも同義語となる。
 「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」という三法印、あるいは「涅槃寂静」を加えた四法印中の「諸行」は、縁起されたものを意味するが、それも、個人存在に関するかぎりでの一切法を指すのであって、諸行=諸法=一切でなくてはならない。しかし、アビダルマ仏教、特に説一切有部では、有為と明確に区別して無為を立てるために、この「諸行」も、無為以外のと限定して解釈される。なお、諸行は、縁起されたものであるから無常なのである。三苦(苦苦・行苦・壊苦)中の行苦(saṃskāraduḥkha)は、さらに無常=苦と続けるのである。五蘊・受・想・行・識)において、受(感受作用)―想(表象作用)一行一識(識別作用)は一連の心理活動と考えられており、したがって「行蘊」は、上述の思(六触所生の六思)なのであるが、心所(心作用)に対する分析・分類が進んで多くの心が設定されるにともない、思を代表とする受・想以外の心所すべてとされるのである。また、一切法の分類として五位七十五法を立てる説一切有部においては、五蘊をも一切有為の分類であると考えて、「行穂」は、色、識=心、受・想、無為以外の諸法、すなわち、受・想以外の心所と心不相応行法(心所以外の作用・力など)とされるのである。
 一方、説一切有部の五位七十五法における行とは、受・想をも含む一切の心所(心相応行法)、ならびに、心不相応行法の ことである。十二縁起の第二支としての「行」は、無明などを相とする識の活動であり、無明などに条件づけられた思、またはそれにもとづく業であって、通常、身・語・心の三行、福行・非福行・不動行と解釈される。また、十二縁起を、三世両重 の因果として捉える場合は、過去の業と解釈される。