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チベット

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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チベット

Tibet

 ヒマラヤ山脈の北側、崑崙山脈の南側に横たわる山岳地帯を地理的にチベットと称する。東は大雪山脈で中国本土と区切られ、西端はカラコルム山脈に接している。このうちのヒマラヤ山脈沿いの南縁とその北東に伸びた延長線上の南北に走る渓谷、および青海以南の四川省西縁の土地に住する民族がチベット人である。漢文史料で「氐(てい)」とか「羌(きよう)」と呼ばれていたものが古い時代のチベット系民族であるともされるが、確かではない。隋の時代にその存在が漢土に伝えられ、唐代に「吐蕃(とばん)」と呼ばれたのは、このチベット人が建てた最初の統一王国であった。

吐蕃王国

 ソンツェン・ガンポ王によって七世紀前半に建てられ、隋・唐2代の圧力によって滅亡の危機にあった吐谷渾(とよくこん)を併合し、代わって7世紀後半から東西通商路の東端と南縁の支配に乗り出した。それ以前に、彼らは固有の文字をつくり、官位十二階を定めて、その階層構造の中で諸部族を統合支配する法令を定め、王の君臨を受けた。また、軍戸、民戸を分けて徴兵、徴発を制度的に完備させたうえで唐との戦いに臨み、安禄山の乱以後は優位に立って、現代の甘粛省東部を除いた大部分と新疆ウイグル自治区南部を9世紀前半までその支配下に置いた。
 761年以来ティソン・デツェン王(742年797年)が仏教の国教化をすすめると、知的選良である僧が新しい支配階級として現れ、たちまち国政の頂点に立った。彼らは戦いを止めさせて822年唐と和平条約を締結、翌年ウイグルとも和平を結んだ。以来、この王国はもっぱら仏教国家の理想を追ったので、財政負担がかさみ、宮廷勢力の分裂から843年南北王朝に分かれて崩壊した。

 南朝は祖先の拠ったツアンボ(蔵布)川南岸ヤルルンの地に移ったが、権威を保てないで、10世紀後半には彼らの遠祖由来の地ラトゥーやガリにのがれ、それらの地で勢力の回復をまった。11世紀に入り、西夏の西遷によって東西交通路の東口がふさがれると、青海周辺から西域南道に出る新道がひらけ、青海南東のツォンカ(西寧)付近が隊商の基地としてにぎわった。その地で西夏に対抗する軍事力の組織化が要請されたとき、チベット人に対する結束の中核として、ラトゥーにのがれていた吐蕃王の末裔ティデが招かれた。彼は唃厮囉(こくしら、菩薩の意味)と呼ばれていたが、やがてみずから王となって青唐王国を興し、国中に仏寺を建てて往年の吐蕃王国を小型に再現した。

仏教教団の興隆

 同じころ、西方のガリでも吐蕃王の子孫たちが勢力を回復して、インドから優れた僧を招き、若者をかの地に留学させて仏教を再興した。中央チベットでは、王朝の崩壊以来仏教は、国家的援助とともに制約も受けなくなったので卑俗化したが、民間に広くまんえんした。民族宗教のボン教や、禁教になっていたタントラ仏教、中国由来の禅宗などが一部に混交しながら民衆の間に基盤を厚くしていった。時とともに諸氏族の勢力に均衡がとれ、安定がもたらされると、おのずから卑俗化した仏教に対する反省が生まれた。そのころサムイェー寺を支配していた北朝の末裔が後援して、青唐王国に若者を派遣し、その地にもたらされていた吐蕃王国時代の戒律の伝統を受け継がせ、中央チベットに仏教教団を復活させた。教団は各地に再興され、僧と信者が集まって集落をつくり、通商を盛んにした。才能のある若者がインドに留学して流行の仏教を学んで帰り、インドから優れた僧が招かれた。このようにしていくつかの宗派が発生した。有力な氏族は、教団にまつわる利権を捨てきれないで、サキャ派のように僧にならないうちに子をもうけて親子で教団を相続したり、身内のものを教団の中枢に送りこんで、枢要な地位をおじ・おいの間で相続して教団を私有化し、氏族単位で系列化して氏族の名を冠する宗派が発生した。この傾向は教団の質を低下させる結果を生じたので、転生活仏を法主とする教団も後年現れるようになった。この方は、教団の支持層として望ましい氏族の間に有望な幼児を求め、先代の生れかわりに指定して徹底した教育によって次代を担う者にした。そのため、教団は氏族の私有から解放されると同時に質的にも向上したので宗派的結束を倍加させる功も伴った。

元・明王朝とチベット

 13世紀半ばにモンゴル軍がチベットに侵入したとき、氏族教団はモンゴル軍とひそかに接触して災厄を免れたが、師資相続の大寺院は大きな被害にあった。このときチベットに統一権力はなかったが、中央チベットの諸氏族は吐蕃王家の後裔を中心に対策をはかり、当時最大の氏族教団であったサキャ派のパンディタと呼ばれた長老を派遣してクテン(闊端)王の命令に答えた。その後、元朝がチベットを支配することになると、そのおいのパスパ(1235‐80)がフビライの信任を得て、1270年には帝師となった。彼は元のチベット支配を代行しながら、この国の教団社会のために多くの特権をフビライに認めさせ、特異な社会構造の安定に寄与した。サキャ派から続いて選ばれた帝師たちは、元の宮廷をタントラ仏教に惑昏させ、多大の布施を引き出して、その支配を名のみのものとしていった。

 元朝支配の末年、チベット国内では、中央チベット西部に拠ったサキャ派一族が、東部のパクモドゥ派一族に軍事的に圧倒されたので、1354年(至正14)、元は後者に司徒の印を授けた。このようにしてパクモドゥ派政権が生まれ、実力によって中央チベット諸氏族の勢力均衡を維持し、警察権を保った。元に代わった明朝は、15世紀に入ると、チベット国内の勢力均衡を追認する形で積極的な懐柔政策をとりはじめた。パクモドゥ派の首領のほかに、サキャ派本家と中央チベット北東部のディグン派一族に王の称号を与え、他方、宗教界からカルマ・カギュー派、サキャ派、それに当時新興のゲルー派の代表を明都に招いて、それぞれ法王の称号を贈った。東方のカム地方でも2人の王が任命された。このような明の方針を感知すると、各地の氏族教団、とくにカムから四川・甘粛南部にかけての僧徒が、朝廷の下賜物を目的に朝貢し、なかには茶の密貿易で利を得るものも現れた。また、宮廷に入って寵を得るためにタントラ仏教の卑猥な側面を強調して成功するものも現れ、一世紀余り明の後宮を惑乱したため、チベット仏教に邪教黒祠としての千載の汚名を遺した。

ゲルー派とカルマ派の抗争

 16世紀に入ると、チベット国内では、西部に拠点をもったリンプンパ一族がパクモドゥ派政権から離反して実権を掌握し、17世紀には、同じ西部に拠ったその家臣シンシャーパに権力を奪われた。その間の15世紀初めにツォンカパによってゲルー派(黄帽、徳行派)が開かれ、改革的気風がみなぎると、既成宗派の権威が薄れ、カダム派の多くが転宗したので新カダム派とも呼ばれた。カダム派のうちで、密教的修習を重んじてカギュー派とも呼ばれていたものに、かねてから転生活仏制によって法主を立て、宗派的結束を誇っていたカルマ派2派(黒帽派、紅帽派)があった。彼らは立ち上がってこの動きに抵抗したので、ゲルー派の中でもこれに対抗する勢力が生じた。後者は中央チベット東部を本拠としていたため、パクモドゥ派一族や、その配下にあったこの地域の諸氏族と結びついた。これに対し、前2者は、パクモドゥ派一族と対立して西部に拠ったリンプンパ一族と連携した。結局、西部勢力が軍を動かして東部に圧力を加え、ツォンカパが創始してゲルー派が主催し続けていたラサのムンラム大祭からゲルー派を締め出すなどの実力行使に及んだ。ときに、後年ダライ・ラマ2世に数えられるゲンドゥン・ギャツォ(1475‐1542)が現れてゲルー派の支援勢力を糾合し、対抗措置を講じて1518年にそれらの権益を回復し、ラサ近郊のデープン寺の住職になった。このような争いが終わりきらないうちにこの傑僧が没した。

 そこで、ゲルー派系の支援勢力でも、宗派の結束のためにデープン寺住職をこの人物の転生者によって補い運動の中核とすることを考えた。このようにしてカルマ派の拠点に近い有力氏族の子供にそれを指定した。ゲルー派の新しい転生活仏ソーナム・ギャツォは、優れた僧として成長したが、周囲の期待に反して、対立する2派の勢力を融和させる努力を続けた。1578年、彼は青海の南岸に赴いて、彼を招いたアルタン(俺答)・ハーンと会い、ハーンを教化してダライ・ラマの称号を受けた。その後、カム地方の教化に従い、さらにモンゴリアに向かい、ハルハ部族も教化してその地に没した。ゲルー派の宗派指導層は、カルマ派との融和策を捨て、対決策をとってアルタン・ハーンのおいの子をダライ・ラマの転生者に指定した。その一族トゥメト部の軍事力を利用したかったのである。その露骨な態度がもとになり、カルマ派との対立が再燃すると、後者は、内は新しい支配者シンシャク一族と結び、さらに、ゲルー派にならって外はチャハルやハルハのモンゴル人を教化して連携した。17世紀に入り、モンゴル人のダライ・ラマが没し、やがてその一族がチャハルや青海のハルハに滅ぼされると、ゲルー派は危機に立った。彼らは急きょ漠北のオイラートに使いを遣わし、グシ(顧実)・ハーンと盟約を交わし、その軍を導入して、カルマ派支持の青海のモンゴル人を討たせた。さらに、中央チベット西部に拠っていたシンシャーパ政権(蔵巴汗)も覆滅させて1642年グシ・ハーンの軍事力を後ろだてとしてダライ・ラマ5世を法王とする政権を樹立した。45年からポタラ宮を造営してダライ・ラマの権威を象徴させ、モンゴル人一般に対する支配をしだいに強め、広く俗権の授受にまで権威としてかかわっていった。そのようにしてグシ・ハーンの没後には、その子孫を任免する形をとることができた。

清朝のチベット支配

 ダライ・ラマ5世の晩年から18世紀はじめまで摂政サンギェー・ギャツォ(1653‐1705)が実権をとり、オイラートのガルダンを繰って全モンゴル人に対する支配を、彼の軍事力によってさらに固めようとしたため、清朝との対立を深め、モンゴルの人心をかえって失う結果になった。18世紀はじめ、グシ・ハーンの曾孫ラサン・ハーン(?‐1717)が復権を志し、クーデタを起こして摂政を殺し、清朝と結んでダライ・ラマ6世を廃し、1705年みずから政権を取った。このときパンチェン・ラマ2世と相談して新しいダライ・ラマ6世を立てたので青海のモンゴル人や漠北ジュンガル人の反発を招き、後者はひそかに軍を派遣して17年にラサン・ハーンを滅ぼした。清朝は、青海のモンゴル人がダライ・ラマ6世の転生者として擁していた幼童をかねて青海に保護していたが、これを正式に7世と認め、軍隊とともにラサに送り、ジュンガル軍を追って、20年にカンチェンネーらに政権を担当させたが、新ダライ・ラマを象徴的存在にとどめた。27年カンチェンネーが清の命令を受けて古派仏教徒を弾圧し、殺害されると、ポラネー(1689‐1747)は清に通報し、兵を起こして主謀者たちを捕らえ、清兵の到着を待って断罪した。こうして28年、清の駐蔵大臣監視のもとにポラネーの独裁政権が出発した。ダライ・ラマの父がこの事件に関わったところから清はダライ・ラマを四川のガルタルに送って謹慎させ、35年までラサに帰還を許さなかった。さらにダライ・ラマの特権の一部を削ってパンチェン・ラマに付与し、後者の勢力を清朝側に引き付けておくのを忘れなかった。

ダライ・ラマによるチベット支配

 ポラネーは清朝の信任を得て40年郡王に任命され、1747年に没した。後を継いだ次子ギュルメー・ナムギェル(?‐1750)は、父と一変した態度をとり、清軍の撤退を求める一方、チベット人の軍隊を準備したため、50年2人の駐蔵大臣に殺害された。激高したギュルメー・ナムギェルの徒に駐蔵大臣らが殺されると、ダライ・ラマは異変に驚きながらも民衆をなだめ、清朝側の係累をポタラ宮に保護して清軍の到着を待った。清はダライ・ラマの処置を評価して51年からダライ・ラマを主権者とし、駐蔵大臣との協議を条件に4大臣合議の行政組織を出発させた。これが近年まで続いたダライ・ラマ政体の出発であった。まもなくダライ・ラマ7世は没し、8世が立つと、成年に達するまで新たにダライ・ラマの名代職が設けられた。最初の名代職が没したとき、8世は20歳に達していたが政治に関心が薄く、次々に摂政を置いたので権力争奪に新たな道を開くことになった。8世没後、13世が登場するまで、その間のダライ・ラマは20歳前後もしくはそれ以前に世を去り、実権は摂政や名代職の間で授受された。その間に、ネパールを支配したグルカがチベットを侵略し(1788、1791‐92)、さらに、1841年にはドクラ戦争が起こり、西チベットがゾラワル・シングに攻撃された。このときチベット軍は反撃したが翌年ラダックで敗れた。当時、清はアヘン戦争のため、援軍を送ることができなかったのでその監督力が無視され、チベット国内ではさらに露骨な権力争奪が繰り広げられるようになった。たとえば、名代職ラデン活仏とシェーダワ・ワンチュク・ギェーポ(?‐1864)が権力を争い、後者に協力してチキャプ・ケンポ(内閣指導僧)にまでなったペンデン・トゥンドゥプは、みずから権力を掌握するとダライ・ラマ12世を廃そうとまでして、摂政ケンラプ・ワンチュクに追われた。こうした謀略が多年渦巻いた後にダライ・ラマ13世が登場した。

 13世の生まれた1876年、チベットの知らないうちに清とイギリスの間に芝罘(チーフー)条約が結ばれ、以来イギリスはチベットへの入国権を主張した。13世が実権を手にした95年は、清が日本との戦いに敗れた後であったため、チベットは清の宗主権を否定してイギリスの要求を拒んだ。そのころから帝政ロシアがチベットに往来し始めたため、いらだったイギリスは1904年ヤングハズバンドによる武装使節団をラサに派遣した。ダライ・ラマは外モンゴルのウルガに亡命し、使節団は留守をあずかるガンデン寺座首とチベット・インド条約(ラサ条約)を結んで帰った。清はチベット・インド条約に調印しなかったが、宗主権確認のためラサ政府の代表をインドに呼び出し、その手に賠償金を手渡してイギリスに支払わせた。ダライ・ラマはたび重なる帰還要請にこたえないで、青海から北京に向かい、08年その地に至った。清はその間に宗主権確認の外交工作を完成し、10年初め清から帰国するダライ・ラマを追うようにして軍をラサに送った。13世は旅装を解くいとまもなく、今度はインドに亡命した。清はダライ・ラマを罷免し、カム地方に西康省を建てて直轄地とした。清に占領されたラサではパンチェン・ラマ6世が迎えられて清に協力した。翌11年辛亥革命で清が滅び、13年1月ダライ・ラマは帰国したが、袁世凱の呼びかけを拒んで独立を宣言した。14年イギリスはシムラ会議を開き、中国の宗主権下で大幅なチベットの自治を求めた。しかし、中国はこれに調印しなかった。

 以来ダライ・ラマは東部チベットから中国勢力を駆逐して実効支配に至ることを志してほぼ成功した。その間に、財政負担をパンチェン・ラマにも求めたが、清に協力したパンチェン・ラマは報復をおそれてひそかにチベットを脱出し、25年北京に至った。以来、パンチェン・ラマの帰国とチベットの中国への帰属が国民党から繰り返し呼びかけられたが、13世は拒み続けて没し、パンチェン・ラマもまもなく世を去った。後者の転生者は、ラサ政府とは別に国民党でも選出され、共産党に引き継がれていたが、51年チベットに入ったので、正式に身分が定まった。同じ青海出身のダライ・ラマ14世は59年中国共産党との協力をやめてインドに亡命し、今日に至っている。