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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

因果

hetuphala, kāraṇakārya (S)

 因果の概念は(a)業説に関連するものと(b)存在論に関連するものに大別される。

(a)業説

 業説・輪廻説や祭祀学での因果とは一種の倫理的要請にもとづく善因楽果、悪因苦果という因果応報の原則を意味する。人が身体・言語・思考の諸行為を為すと、その善悪に応じて一種の潜勢力(行)が形成され、それが行為者に相応の果をもたらす、というのが業説であり、この潜勢力が消耗されつくさないかぎり人は果報として生を繰り返さねばならないというのが輪廻説である。この因果応報理論は、インド宗教一般の承認する布施、祭祀・供犠の実行による現世利益、生天などの果報獲得の根拠でもある。一部の思想家はこれを否定する。たとえば六師外道中、プーラナ・カッサパはこの善楽・悪苦の応報を認めず、したがって道徳否定論をとなえ、マッカリ・ゴーサーラは一切現象を霊魂・五大などの十二原子の結合遊離で説明するが、その結合は無原因であると宿命論を説き、またアジタ・ケーサカンバリンは徹底した唯物論の立場で、人間は五大からなり、死ねば五大に帰すのであり、霊魂も存在せずと説き、したがって輪廻も因果説も認めない。

(b)存在論

 存在論での因果論は因果の関係論的考察であり、世界生成の考察と重なる。一般的に外界実在論をとる正統思想において「有は無より生じたり」という『リグ・ヴェーダ』や『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』の先駆思想は因中有果・因中無果説、転変説・構成説へと展開される。

因中有果説と因中無果説

 因中有果説とは、結果は、顕現以前にも潜在的に原因中に存在する、とする説である。ウッダーラカ・アールニの「有の教説」に見られる先駆思想がサーンキヤ派により定式化された。その証明は(1)非存在物の非生産ゆえに(2)質料因の選択ゆえに(3)一切の(不特定一切からの)非生産ゆえに(4)力能所有者による力能対象物の生産ゆえに(5)(結果と)原因の同質性ゆえに、の五理由による。この観点からは、世界生成は、三徳の平衡態である根本原質から統覚機能以下二十三原理が、世界の相をとり順次開展してくる、と理解される。これが開展説である。
 これと対立するのが、ヴァイシェーシカ派の因中無果説と世界生成の構成説、すなわち、四原子が種々に結合し世界を構成していき、その際、以前には非存在であった結果が原因の作用により生起する、という説である。因果関係をさらに考究したこの派やニヤーヤ派によれば、原因は、結果より先に存在し、絶対的対応関係にあるもの、また、結果とは、原因より後に存在し、絶対的対応関係にあるもの、と定義される。原因は(1)内属因(2)非内属因(3)動力因の三種類がある。たとえば、糸は布の内属因、糸の色は布の色に対し非内属因、また、機隠は布に対し動力因である。原因が結果を産みだす力(力能)に関しては、ヴァイシェーシカ派の正統派は力能を原因の本性と理解するのに対し、ミーマーンサー派のプラバーカラ派は、力能を不可視な独立の実在と考えた。

仏教の因果論

 仏教が因果論を展開する基本的立場は、不変・恒常なアートマンという実体が生物一般のなかに存在するというバラモン教の理論を否定し、さらに世界創造神イーシュヴァラの存在を前提にした諸法や世界の生成・存在の理論をも否定しようとするところにあった。
 この無我論と無神論を立証するために、原始仏教以来、事象の生成・存在の条件や原因が明らかにされ、それを示す言葉がさまざまに述べられている。その代表格は、paṭicca(縁)で、いわゆる十二縁起説の重要な概念であるが、これに類似する語として, paccaya(縁りて)、hetu(因)、nidāna(縁由)、samudaya(集因)、jātika(生)、pabhava(出現)、sambhava(発生)、upanissaya(依って)、upanisā(因由)などもあげられよう。これらはいずれも、論理的な帰結(果)に対する条件(因)を示すときに一般に使用されるが、存在の「生起」という時間的な観念や存在の「相依性」という空間的な観念もそこに含まれている。それゆえ、十二支縁起を三世にわたる業報の因果として捉える部派仏教の業感縁起説ものちに展開し、諸法を「因果所生」と観て存在の「実性」を明らかにする中観の思想もそこから生まれるわけである。
 しかるに、迷いの生存のメカニズムと、転迷開悟の過程を統一的に因果の問題として解明しようとしたのは、説一切有部であって、彼らは、それを「六因・四縁・五果」によって表わしている。すなわち、すべての存在は、結果の発生を妨げず、間接的に結果発生の原因になる(能作因・増上果)、複数の存在が相互に助けあって一つの結果を生む(倶有因・士用果<ジユウカ>)、同一の物が継時的に存在する(同類因・等流果)、心と心作用が相互に協調して作用する(相応因・士用果)、苦諦・集諦下の七見・二疑・二無明は煩悩の継時的発生の因となっている(遍行因・等流果)、善あるいは悪の行為(業)が苦あるいは楽の果を生む(異熟因・異熟果)、――いわゆる因果応報とはこの異熟因・異熟果を指す――このように、原因については六種を立てるが、同一種の因果関係を、心作用と煩悩について別立てにしているので、結果の側からいえば四種となる。これに、煩悩を断つことによって得られる離繋果を加えて五果という。四縁についていえば、第一の因縁とは因即縁の意味で、上記の能作因を除く五因がこれに対応する。等無間縁と所縁縁とは、心・心作用についてのみいわれ、前者は前刹那の心・心作用が後刹那の心・心作用の発生の引きがねになることをいい、後者は心・心作用には必ず客観的対象がともなうことをいっている。増上縁は、能作因と同じく、他の存在の発生を妨げない消極的間接的原因のことである。六因と四縁は成立過程を異にするため、異なる分類法となっているが、説一切有部においては、因と縁は同義である。さて、転迷開悟の観点より因果をみると、修行上の目的である無為の世界(無為法)は、あらゆる修行の因となり、心の対象となるので能作因(増上縁あるいは所縁縁)となるが、それが直接に結果を引きだすことはないので果はない。他方、智慧による煩悩の断滅(択滅)は、さきに述べたように離繋果であるが、智慧は心作用の一つであって、有為法であるから、無為法たる択滅の因とはならない。よって択滅は因がないと考えるわけで、修行実践は迷いの生存の因果を否定し、これを離れようとするところにあるというわけである。
 しかし、説一切有部が、否定すべき迷いの生存のメカニズムを説得力あるかたちで示そうとするあまり、迷いの生存を実体的に把握して因果論的に説いたことは、逆に実践的視点を弱めてしまう結果を招いた。のちの大乗仏教が説一切有部を批判したのは、実にこの点にあった、といえよう。

龍樹における因果

 すべてのものを縁起という関係性において見る龍樹は、因果を固定的に捉える実在論の立場を徹底して否定する。因とは、果との関係性において因であり、果とは、因との関係性において果であるから、因果とは、相関性の関係において成立している。もし因と果とが相関関係を離れて、それぞれが独自に存在していると考えるなら、論理的に矛盾し、因果は成立しなくなってしまう。この論理的矛盾をついていく操作が、いわゆる否定論証ともいうべき空の論理であって、彼は『中論頌』をはじめ諸著作の随所において、因果の否定を述べている。実在論の立場とは、説一切有部を代表とする部派仏教やサーンキヤ哲学やヴァイシェーシカ哲学などの立場である。これらの立場においては、因果は固定化され実体と見られている。そうであるとすると、因果関係は、因と果とが同一であるか、別異であるか、どちらかを考えざるをえなくなる。もし同一であるとすると、因と果とは同じであるから、たとえば種子から芽が出るということはいえなくなる。種子は芽と同一であるから、芽から芽が出るということになるからである。また同一であるとすると、どちらが因でどちらが果であるかいえなくなってしまう。両者は同一であるから区別が成立しないからである。またもし別異であるとすると、これもまた論理的に矛盾する。別異である点においては、たとえば石と芽とにおいても同じであって、したがって石から芽が出るという不合理が生じるからである。また別異なるものは、永遠に異なるのであって、両者のあいだには関係が成立しない。
 このように因果を同一性と別異性ということによって否定する龍樹は、因果を縁起という関係性において見ている。このことを知らずに、因と果とをそれぞれ自体として成立していると見るのは、われわれの思惟の誤りである。因果が縁起において成立するということが、因果は空性において成立するということであって、そこで龍樹は「縁起とは空性である」と語るのである。したがって縁起とか空性とかは、あらゆるものの真のあり方を示しているといえる。因も果も空であるというのは、そのことを示しているのであって、因果そのものを否定しているのではない。つまり因果を実体的に捉えるとき、因果関係そのものが成立しないことを明らかにしたのである。そこで彼は、因果は幻のようであるという。ここで幻のようであるというのは、実体がない、無自性であるということを示している。因は果を内包しているのでもなく、また因の結合や分離によって果の生起と消滅とがあるのでもない。因から果へという移行は、単なる様態の変化ではない。因果とは言葉(概念)にすぎず、言葉はそれに対応する実在を反映していない。幻のような因から幻のような果が生じるというただそれだけのことなのである。