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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

縁起

pratītyasamutpāda (S)、paṭiccasamuppāda(P)

総論

 原義は「縁って起こ(ってい)る」。こころのはたらき。行為。生きるなかのさまざまの存在や状態や運動について、その一々に一種の原因一条件一結果という関係性を立てる思想。それを仏教のスタートのと、ゴールのさとりとに拡大し、そのあいだの諸煩悩や愛執などによる迷い、またそれらからの離脱や解放、すなわち解脱その他まで包みつつ深めて、仏教の基本的教説となる。最初期からその萌芽が見え、初期、部派、大乗と継続して、縁起説は論究・深化され、インド仏教思想史の中心的位置を占めた。ただしこの訳語が玄奘によって固定する以前、羅什などは因縁その他と訳したためもあり、中国・日本などの仏教では、隠れた傾向もある。
 縁起における一種の因果関係性は、異時と同時とにまたがり、後者は論理的にも解されて、理由一帰結とされる。また異時の場合、あらゆる時間の始元と終極とに無記を貫いた釈尊の根本的立場と、その徹底した現実凝視によって「すべて生起した存在(もの)は消滅する」という釈尊の悟りとによって、縁起説はそれだけで完結すべく整備された。最初期の資料たとえば

 快と不快とに縁って欲望がある(起こる)。〔『スッタニパータ』867〕
 執着に縁って世のなかの種々の苦がある(起こる)。〔〃1050〕
 愛執の断に縁ってニルヴァーナがある(起こる)。〔〃1109〕

などに、いわゆる二支間の関係が説かれ、ときに、三支や多支に拡大する。この際の「縁って」は、-nidāna, -paṭicca, -paccayaなどがあり、また格語尾の変化で示される例も少なくない。散文の初期経典では、縁起説が整えられて確固たるものとなり、諸思想の基礎におかれて、たとえば

 縁起を見るものはを見る、法を見るものは縁起を見る」〔MN.1. 191=中阿含経30、T1. 467a〕

などとも説かれた。

十二(支)縁起

 関係しあう各支の数が増えて、五支、六支、九支、十支などを経て、十二支縁起説(十二因縁説)が成立し、そこには「無明名色-六入-触-受--有-生-老死(-苦)」が立てられ、それぞれ前の支に縁って後の支が生ずるという順観と、同様にして滅するという逆観とがともなう。
 なお最初の支の無明とは人間存在の根源的な無知をいい、それはついに知りえないものであり、もしも知られるならば、その無明はすでに滅している。十二因縁説の後に、諸支を省いて、

 これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる。これがないとき、かれがない。これが減するとき、かれが滅する。

と簡略化したフレーズもつくられた。
 釈尊がブッダガヤーの菩提樹下ではじめて悟りを開いたその成道の内容を、十二因縁とする資料が律蔵の大品〔Vinaya-piṭaka, Ⅰ〕や、『ウダーナ(Udāna)』に見られるところから、釈尊の自内証の法門とする説もあるが、初期仏教資料には諸縁起説がきわめて乱雑に混沌のまま説かれてあり、それらの文献学的・思想的な研究によれば、この説はすこぶる疑わしい。縁起説における二項ないし多項問の関係性追究は、初期仏教の諸説に反映する。なかでも四諦説は、苦と集、集と滅、苦と滅、滅ととからなる。その集は、縁起の起としばしば交換され、生(ずる)と同じ。ほぼ愛執に縁って苦が起こるという集諦、それらの滅したニルヴァーナを説く滅諦、そしてその実現に八正道からなる道諦に縁る、と四諦説はいう。

 初期仏教に発する縁起説は、部派において、特にカルマ()の思想と結んで業感縁起説となり、日常の実践を律し、かつ導いた。また十二因縁説を過去-現在-未来に適用して三世両重因果が立てられ、これは時間的な胎生学的解釈と称される。このほか、因-縁-果を細分割して、六因と四縁と五果とを設け、また刹那・連縛・分位・遠続の四縁起説その他があって、ますます精密化する。

大乗の縁起説

 縁起している諸支について、そのあいだの関係性を特に鋭く考究し、諸支そのものとそれぞれの名称(すなわち言葉)との実体視や固定化を破り、さらに初期仏教以来の無我無常にもとづいて徹底した洞察を果たしたのが龍樹であり、縁起はいわば相依相関に深められ、各支の無自性(無実体)が明らかとなり、空であること=空性、さらに中道に通ずる。龍樹は「空であることとはすべての見解の超越である」と宣して、生滅・一異・去来・断常のおのおのを否定するいわゆる八不の縁起を明らかにすると同時に、「空であることの成立するところに、一切が成立する」と説き、無自性-縁起のうえに、あらためて凡夫と如来、迷いと悟り、世俗とニルヴァーナとに根拠を与え、実践の基盤をすえる。またそのなかには、世俗諦と勝義諦という二諦説を示した。こうしていわば空にうらづけられた縁起説はその後も多種の展開を示す。その主なるものは次の通り。

阿頼耶識縁起

 阿頼耶識縁起(頼耶縁起)を掲げる唯識説は、眼耳鼻舌身意の前五識の奥に、それらを統一する自我を含むマナ識を、さらにそれら一切を蔵するアーラヤ識を立てると同時に、現象する対象(=、外界)はすべて識の表象(転変)にすぎないと説く。ただし識と境との縁起の際の形象(=)をめぐって、その有か無かの二論があり、唯識説はのちに二派に分かれる。いずれにせよ唯識説は、きびしいヨーガ行の実践のうえに展開されており、ヨーガーチャーラ(瑜伽行)派とも呼ばれる。

如来蔵縁起

 如来蔵縁起説は、生あるもの(衆生有情)の根源に如来への可能性である如来蔵、ないしは仏と成りうる素質の仏性を認めて、日常の迷いのなかから、ついには悟りにいたりうる途を用意する。それは生あるものの根本に覚ありとする本覚思想に発展する。これらは中国や日本の仏教に大きなはたらきをはたすことになる。

法界縁起

 法界縁起は、『華厳経』に一貫する唯心説にもとづいて、世界のことごとくが、心の法界のうえに、各個でありつつ、たがいに相即相入して、一と一切とが重々無尽に一致しつつかつ展開することを説く。そのような無擬に相入しあうあり方を性とし、縁起よりはむしろ性起の語を多く用いて、これが華厳教学の中心となる。

六大縁起

 六大縁起説は、地水火風空識という六が、それぞれは自然界および意識界の単位でありながら、相互に浸透しあいつつ、万法に普遍することを説き、主として日本において栄えた。特に密教はこの六大縁起説のうえにその学説を立てる。以上のほかに、中国と日本との仏教の根幹となった天台教学は、龍樹の思想を受けて、空-仮-中の三諦にもとづいている。その根底には上述の相即しあう縁起説があるものの、羅什訳の諸法実相(真実なるあり方)が前面に出て、一般には実相論と称された。

 以上のように、縁起説は、時代や論師たちなどからさまざまな解釈が加えられつつ、つねに仏教思想の根本にあり、逆にいえば、創造者や形而上学的原理ないし実体を設けない仏教思想の特質を最もよく表明している。