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しんぞくにたい

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2019年12月17日 (火) 09:28時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (二諦)

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二諦

satya-dvaya(S) bden pa gnyis(T)

 二世界説(Zweiweltentheorie)といえば、イデアの世界と現象の世界、叡智界と感性界、本体界と現象界、あるいはまた神の国と地上の界など、世界を何らかの観点から二種に峻別、対立させる学説の総称である。多岐にわたるインド思想のなかにも、一種の二世界説に立つと考えられる学説がある。精神原理(puruśa)と物質原理(prakṛti)の二元論に立脚するサーンキヤ派、唯一の実在であるブラフマンと、無明(avidyā)によって現出される、多数の個我および多様な現象世界との区別を語るヴェーダーンタ派の学説などは、インドにおける伝統的な世界観の一つをそれぞれ形成しており、いずれも広義の二世界説に立つといえる。
 仏教もまた元来、迷いとさとり、無明と縁起流転門と還滅門といった区別に示されるように、凡夫(pṛthagjana)と覚者(buddha)とによって捉えられ、生きられる世界に差異を見る。仏陀が成道の後に説法を躊躇したのも、自ら証得した法を世人に説くことの困難さからであり、戯論(prapañca)を離れた真理を戯論の通用する世界に弘めることのむずかしさを、仏陀自身が了解していたからにほかならない。それゆえ、教説は本来、彼岸に渡るための筏のごときもので、彼岸の涅槃に渡りおわれば不要となる(『スッタニパータ』21,他)。しかしながらまた、筏なくして彼岸に到達することは不可能であり、教説の不可欠な重要性がここにある。
 原始仏教においては、二諦説、すなわち勝義(paramattha(P) paramārtha(S))と世俗(sammuti(P) samvṛti(S))の2種の真理(sacca(P) satya(S))について、教理的にまとまったかたちの説明は見られない。しかしながら、二諦的な思惟方法は原始経典の随所に示されており、その場合、勝義とは究極的真実である涅槃に相当し、世俗は、「言語表現」あるいは「言語習慣」を意味するvohāra(vyavahāra(S))の同義語として用いられることが多い。勝義と世俗を二諦説として発展させ、さらにそれを一種の教相判釈の立場から援用するにいたるのは、後代のアビダルマ仏教以降のことであるが、上述の勝義と世俗の語義そのものは原始仏教以来ほぼ一貫している。そしてまた、仏陀の成道後に見られた説法への躊躇、さらにはさきの「筏の譬喩」における教説の意義づけは、仏教が元来、二諦的な世界観を保持していることを表わすものといえる。
 アビダルマ仏教においては、このような二諦の思想を継承しつつ、それを人無我法有の立場から、一種の教判として展開する点に特色がある。『大毘婆沙論』(巻90)によれば、作者・受者は世俗有であり、異熟とが勝義有であるといわれ、また、補特伽羅(pudgala)が、であるのに対して、色などの五蘊は実であるとも解説される。五蘊が勝義諦であることは『アビダルマ・コーシャ』第6、賢聖品のなかでも論述されている。(rūpa)は、それを極微に分析しようと、味(rasa)などの諸法を除外しようとも、その本質(svabhāva)が認識され、ゆえに、勝義として存在するから勝義諦(paramārtha-satya)である。これに対して、たとえば、瓶は瓦礫に分解すればその認識は生じない。また水は、色などの法を除けばやはりその認識は生じない。それゆえ、瓶と水は世俗有(saṃvṛti-sat)であり、虚妄(mṛṣā)でないという意味で世俗諦(saṃvṛti-satya)であるといわれる。

龍樹

 二諦の思想は大乗の諸経典、とりわけその最古層に位置する般若経において新たな展開をみせる。般若経によれば、作者や人我ばかりでなく五悪や菩薩、仏などの一切が名称のみ(nāmamātra)であり、言説を超越した不可言(anabhilāpya)の空性(śūnyatā)以外に勝義の真理はないという。ここでは、アビダルマ仏教に説かれた人無我法有の立場がはっきりと否定され、人も法もともに世俗の言説(vyavahāra)にすぎず、勝義諦に位置するのは、不可言なる空性、不可得(anupalambha)なる般若波羅蜜(prajñāpāramitaa)にほかならないとされる。この般若経の二諦説は、勝義=涅槃、世俗=言説という、原始仏教の二諦思想への回帰を図るとともに、それを一種の教判としても援用するアビダルマ仏教の発展的な二諦説を継承するものである。ただし、アビダルマ仏教とは異なり、人・法いずれも無我(nairātmya)であるとし、五悪に代表される伝統的な諸教説は、一切法の空性という勝義の真理を伝えるための方便説にすぎないと説明される。このような般若経の二諦説の展開に少なからぬ影響を与え、一切法空性の意味を闡明したのが、大乗の最初の論師と目される、龍樹(Nāgārjuna, 150-250頃)であった。その龍樹の二諦説を典型的に示すのが、『根本中論』第24章における次の三偈である。

 諸仏の説法は二諦に依ってある。世間世俗諦と勝義からの諦とである。
 これら二諦の区別を知らない者は、甚深なる仏説の真実を知ることがない。
 言語習慣に依らずして勝義は示されない。勝義を得ずして涅槃は証得されない。(第8-10偈)

龍樹のこの二諦説は、一切が空であれば、四聖諦三宝はもとより、世間・出世間のあらゆる言語習慣が破壊されてしまうのではないかとの反論に答えて述べられたものである。これによって龍樹は、もろもろの事物が自性(svabhāva)に関して空である(=自性がない)ということが勝義の真理にほかならないことを示す。しかしながら、事物が生じ、滅するということは、世間において、実際そのように見られ、また「生」「滅」などの言語表現も、十分に有効性をもつのであるから、その意味において真理(satya)であるといわねばならず、それゆえ(世間)世俗の真理であるという。そしてまた、これらの世間の真理に準拠する「生・住・滅」「業・業果」「五蘊」などの教説は、一切法空性という勝義の真理を伝え、知らしめるうえで不可欠の重要性をもつ。龍樹が『空七十論』第69偈に対する自注のなかで、

 勝義においては、縁起なる一切の事物は自性に関して空である、というこのことに尽きている。(しかしながら)仏世尊は、世間の言語習慣に依って、種々なる残りなき一切をあるがままに仮説されたのである。

と語るのも、以上のような一種の教判的な意味あいからの二諦説であるといえる。なお、さきの『根本中論』第24章の後半において龍樹は、論敵が空性説(śūnya-vāda)に対して投げかけたすべての過失は、空性説にではなく、有自性説(svabhāva-vāda)にこそ付随することを詳説している。龍樹の二諦説にあってこの点は重要な意味をもつものであり、「生滅」や「五蘊」などのすべての世間・出世間の言語習慣は、自性を認める立場にもとづくのではなく、空性一味なる世界のうえにくりひろげられる、仮名(prajñapti)としてのみ成立することを含意している。

中国・日本仏教

 龍樹の二諦説は、「生・住・滅」「業・業果」「五蘊」などの、世俗の真理に準拠し密意(abhiprāya)をもって説かれた教説と、戯論の寂滅を特質とする「不生・不滅」「一切法空性」などの、勝義の真理を直裁に表わす教説との質的な差異を明らかにする、との意図をはらむものである。このような龍樹の二諦説の趣意をふまえて吉蔵(549-623)は、『中観論疏』のなかで、「於諦」「教諦」の二種の二諦説として解説を与えている。すなわち、約理、約教の二種の二諦説としてである。「於諦」の二諦とは、教説の二諦(教諦)の所依となる、凡夫と聖者とに紗ける諦であり、吉蔵によれば、それぞれ〈有〉と〈空〉に相当するという。『二諦義』(巻上)のなかで吉蔵は、

 諸法は空を本性とするが、世間では顛倒して有であるという。世人にとって(有であることが)真実であるから、これを諦であると名づける。(これに対して)、諸々の賢聖は、(有と捉えることが)顛倒であることを正しく知っているので、空を本性とするということこそが、聖人にとって真実であり、ゆえにこれを諦と名づける。〔T45-86c〕

と解説している。これら二つの於諦をよりどころとして説かれる二種の教説、それを吉蔵は二の教諦と呼ぶ。このうちで、第一義(諦)によって説くのが真実説であり、また、俗(諦)によって説くのが方便随宜説であるといわれる。吉蔵によるこの於諦および教諦の二諦説は、羅什訳の青目釈『中論』にもとづいて、龍樹の二諦説を発展的に解釈したものといえる。能依の教説を教諦と呼ぶ点にも、吉蔵の二諦理解の特色は見出せるのであるが、何よりも重要であるのは、世諦―凡―〈有〉、第一義諦―聖―〈空〉という二諦解釈に示される、空の理解そのものである。空を有の対立概念、すなわち無のほぼ同義語として理解する点は見のがしえず、『中論』第24章第18偈に対する中仮義解釈(「因縁所生法」=世諦=〈有〉、「我説即是空」=第一義=〈空〉、「亦為是仮名」=〈仮有・仮空〉、「亦是中道義」=中道=〈非有・非空〉)においても、吉蔵のこの空理解は端的に表わされている。

 日本においては、真宗真俗二諦相依の説が知られる。この説は、真俗二諦の名称を用いて真宗教義の基本体系を説明するもので、直接的には明治期に成立した。その内容は、阿弥陀仏を信仰して極楽浄土に往生する道を示す出世間的教法にあたる真諦と、他方、国法を遵守し、国家および社会に対して、各人が実行すべき道徳を示す世間的教法に相当する俗諦とからなる。そして、真諦・出世間法においては仏法を本として阿弥陀仏の救済を仰ぎ、同時に俗諦・世間法にあっては、王法を先として、国法に違背することなく各人の業務に従事すべきことを説いている。