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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

智慧

prajñā (S) pañña (P) śesrab (T) 般若,慧;
jñāna (S) ñāna (P) ye śes (T) 智

総論

 一般に世間的な知識から区別して宗教的,超越的な知を指して用いられる術語.
 具体的にはブッダが成道に際して縁起の理を悟ったときの知のあり方を指し,それに準じて修行者が悟りを得るために要求される知(無漏慧)(三学の一つ,慧学),および,仏の衆生済度にはたらく広大な知をも含める.
 智慧を表わす語としては,上記の二つ(智と慧)のほか, vidyā(明)、medha(慧)、bhūrī(広慧)、darśana(見, jñānadarśana 知見)、 dṛṣṭi(見,samyag-dṛṣṭi 正見)、vipaśyanā(観)、anupaśyanā(随観)、parijñā(遍知)、abhijñā(証知)、ājñā(了)、samprajāna(正知)、mīmāṃsā(観,観察)、parīkṣā(観)、pratyavekṣaṇa(観)、dharmavicaya(択法)、pratisaṃvid(無碍解)ないしmati(慧)、dhī(慧)などがある。
 このうち, jñāna(智)とprajñā(慧)は阿含経典では区別されない場合が多いが,アビダルマでは智は仏智(知識内容)慧は一般的には基本的な心作用の一つとして道理を弁別(簡択)するはたらきを指すものとして区別される。すなわち,禅定などの修行によって獲得される無漏の慧(三学の一としての慧学)のほかに、凡夫の有漏の慧もそこに含める。
 他方,智と対立し,価値否定的な機能としては(vijñāna)があげられる(識に依らず,智に依れ,四依の一).しかし知識論のうえでは, jñānaもvijñānaも同義語として扱われる.
 大乗仏教でも,概してこの区別は踏襲されるが,特に仏と同じ悟りを得るのにはたらく慧を,般若波羅蜜(prajñā-pāramitā)の名で尊重した.菩薩はその持ち主(dhimat、具慧)とみなされている.
 しかし,唯識説では般若波羅蜜あるいは悟りの慧を無分別智と規定する一方で,仏智は悟りにもとづく対世俗的な,有分別智として,無分別後得の清浄世間智という.無分別智とは直観知で,そこに般若の,また悟りの特質があるとする.直観知はまた超越的つまり人知(これは識にあたる)を超えた知でもある.知識論のうえでは,眼などの感官による知(前五識)は直観知(直接知覚)で,判断(分別)すなわち推論は意識の機能とする。同時に超越的直観知も認め,これはヨーガ修行の結果得られるものとして,ヨーギンの智と呼ばれる。インド思想一般では,直観知を表わすものは√vidを語根とする語, 推理・判断を表わすものは,√jñāを語根とする語という対比がみられる.√vidはもと,見るという意味とつながり,感覚一般にわたり(vedanā、受), また超越的(神的)霊知をも表わす(veda、vidyā 明)。その点,仏教の智慧の特色は、√jñāという理論的知の重視にあるといえる.しかし,霊知的なvidyāも明呪の名で復活し、密教で重要な役割をはたす。vidyāの反対概念であるavidyā(無明)も人知で測りしれないという性格を付与されている。(高崎直道)

アビダルマ仏教

 アビダルマにおける智慧は、智と慧に分けて説明するのが適当と思われる。原始仏教における修行法は戒(śīla)・定samādhi)・慧(prajñā)の三学であった。すなわち戒を守り生活を整え、定に入って心を集中し、四諦などを繰り返し修習し智慧(prajñā)を生じ、この智慧によって煩悩を滅尽して解脱を得るのである。それゆえ慧(prajñā)は初期の仏教において最も重要であった。さとりにいたるよりくわしい修行法である三十七菩提分法中の五根・五力の最後におのおの慧根・慧力が位置するのもそのためである。アビダルマ仏教もまたこの公式を受けつぎ、慧(prajñā)を重要視した。パーリ上座部でも説一切有部でも、慧をしばしば正見・慧根・慧力など、さとりにいたらせる直接の因と同一視している。
 しかし他方アビダルマ仏教(特に有部)では慧の内容をより広く、一般的にしたということができる。すなわち慧を心所の一つに数えたのである。そして、原始仏教で示された修行者をさとりに向かわせる慧は、慧よりもむしろ、智(jñāna)の語で示した。この智はもちろん心所としての広い意味での慧に含まれるものであり、慧よりも狭く限定されている(智については後に述べる)。
 パーリ上座部では、慧(paññā)の特質を知解(pajānana, 了知)と規定した。知解とはよく理解することであり、くわしくはたとえばある対象を「これは青である」などと認識し、その行相を「これは無常である」などと理解し、さらに修行者をして努力してさとりを得せしめることである(『ヴィスッディマッガ』)。そして慧を欲界善心など三十九心と相応する善浄の心所(sobhana-cetasika, 浄らかな心理作用)とみなした。煩悩である悪慧は、見(diṭṭhi)として、不善心所(akusalacetasika)に含められた。この点でパーリ上座部の慧は、原始仏教における慧――修行者にさとりを得せしめる慧――の意味を保持していると考えられる。
 説一切有部もまた処々に、prajñāviśeṣa(勝れた慧)、anāsravaprajñā(無漏の慧)、prajñā amala(無垢の慧)の語を用いて、さとりの智慧を強調している。しかし有部の体系では慧(prajñā)は、十大地法(mahābhūmika,だれでもがいつでも起こしている十の心理作用)の一つに数えられたので、原始仏教やパーリ上座部と違って善浄の慧も、悪慧である煩悩としての五見なども、みな慧に含まれることになる。有部の慧はこのようにしてきわめて広い意味で用いられた。
 有部によれば慧心所の規定は択法(dharmapravicaya,法をよく理解すること)である。この場合のとは四諦の法ばかりでなく、存在の構成要素としてのすべての法を指すと考えられる。それゆえ善浄慧ばかりでなく悪慧も含められたのであろう。釈尊が四諦を理解しきったとき「以前に聞いたことのない法に関して、眼が生じ、智(ñāṇa)が生じ、慧(paññā)が生じ、明知が生じ、光明が生じた」という。このように原始仏教では智は慧と同じ意味に用いられたと思われる。しかし重要な修行法である三学(戒・定・慧)では一般に慧(paññā)が使われている。アビダルマ仏教では、上述のごとく、パーリ上座部も有部でも心所としては慧が用いられた。しかし智が無視されたのでは決してない。智は特にさとりにいたらしめるものとして、つまり慧の主たる意味として慧よりもむしろ多く用いられている。
 パーリ上座部ではさとりにいたる修行階梯として戒清浄から智見清浄までの7を数えるが(解脱参照)、この修行過程において、禅定中に順次に、思惟智(sammasana-ñāṇa)、生滅智(udayabbaya-ñāṇa)、壊滅智(bhańga-ñāṇa)、怖畏智(bhaya-ñāṇa)、過患智(ādinava-ñāṇa)、厭離智(nibbidā-ñāṇa)、脱欲智(muccitukamyatā-ñāṇa)、省察智(paṭisańkhā-ñāṇa)、行捨智(sańkhārupekkhā-ñāṇa)、随順智(anuloma-ñāṇa)の十智が生ずる。これはまだ有漏智であるが次に無漏智の観察智(paccavekkhaṇā-ñāṇa)が生じ、修行者は聖者の位に列する(『アビダンマッタ・サンガハ』)。
 また聖者になってからは預流道智(sotāpatti-maggeñāṇa)、一来道智(sakadāgāmi-magge-ñāṇa)、不還道智(anāgāmi-magge-ñāṇa)、 阿羅漢道智(arahatta-magge-ñāṇa)の四智が生ずるといわれる(『ヴィスッデイマッガ』)。これらはみな、さとり、あるいは、それにいたる過程において得られるものである。
 説一切有部においても、智は慧の中心的意味を担っているように思われる。つまりさとりを得るための智慧という意味が多い。しかしもちろん悪慧などをも含む世俗智というものも数えあげている。だがこの場合も悪慧などよりも、さとりを得るために修行して得た有漏智を示すほうに重きをおいている印象が強い。さて有部では智を有漏智と無漏智に分類する。有漏智には世俗智と他心智(現在の他人の心を知る智)がある。無漏智は法智(欲界の四諦を理解して生ずる智)と類智(色・無色界の四諦を理解して生ずる智)の2に分類される。この法智と類智はおのおの四諦を理解して生ずる智であるから、これをよりくわしく対象別に分類すると苦智・集智・滅智・道智になる。この四智の本質は法智・類智と異なるものではない。無漏智にはこのほかに尽智(一切の煩悩を断じつくし、なすべきことはなしおわったと自覚する智)・無生智(もはや再生はないと自覚する智)がある。また他心智は無漏智にも加えられる。有部では以上の十智すなわち世俗智(saṃvṛti-jñāna)、法智(dharma-j.)、類智(anvaya-j.)、苦智(duḥkha-j.)、集智(samudaya-j.)、滅智(nirodha-j.)、道智(mārga-j.)、他心智(paracitta-j.)、尽智(kṣaya-j.)、無生智(anutpā.da-j.)を数える.
 以上のごとく原始仏教では慧(prajñā, pañña)は修行者にさとりを得させる智慧を意味したが、アビダルマ仏教になると法の体系に組みこまれ、心所法の一つに数えられるにいたった。パーリ上座部は原始仏教の伝統を保持したが、有部は慧の意味を広げ、悪慧の見までをも含めてしまった。
 一方、智(jñāna, ñāṇa)は原始仏教では慧と同義に用いられ、アビダルマ仏教時代を通じて、原始仏教の慧の原義に代わるものとして、さとりを得せしめる智慧としての意味を担うようになった。ただし有部が十大地法中にprajñāを加えた理由、またprajñāとjñāṇaの歴史的展開については不明な点が多い。(加藤純章)

大乗仏教

 ブッダの悟り(無上正等覚)の追体験を目標とする大乗仏教は、仏伝、本生譚に従って、六波羅蜜を実践の基本とし、特に般若波羅蜜をもって悟りを生みだす知のはたらきとして重視した。その悟りの内容すなわち大乗の見地からする真理を明かす目的で作られた経典は『般若経(Prajñāpāramitā)』と名づけられた。そこでは般若(=般若波羅蜜)すなわち慧は悟りの瞬間にはたらく慧(一念相応の慧,ekakṣaṇasamāyuktaprajñā)として仏母と呼ばれ、またその内容は、すべての現象を無自性にして五蘊皆空、一切法空)と観得することと規定された(これは縁起に対する新しい解釈)。しかもその主張によれば、般若のはたらきはあらゆることにとどこおらないとされ、空という理解も、般若のはたらきすらも空であるとされる。大乗の求道者たる菩薩は般若波羅蜜を体得することを要求され、また,仏に代わって衆生済度につくす力をそな更ている点で智慧の持ち主(dhīmat,具慧)とも呼ばれる。一方,仏は般若によって真如に達したものとして如来と呼ばれると解せられ,さらにそれを法(=真如)を体とするものの意で法身と呼ばれた。すなわち,悟りにおいて般若と真如は一体不可分と考えられている。それはまた,言語表現を超えた領域(第一義諦)であるが,仏はただちにそこから出て再び衆生との交通のため言説の世界(言説諦)にもどる。そこでは仏の智はさえぎるものなくはたらいて(無碍智),しかも汚れることがない(無着).それゆえまた仏は一切智(sarvajñā)と呼ばれ,その智は一切種智(sarvākārajñatā)、一切智智(sarvajñajñāna)と名づけられる。この慈悲にもとづく利他の智は『華厳経』その他の多くの大乗経典で力説されている。また,それはしばしば,太陽の光が,あまねく及ぶのにたとえられ,それを名とする仏たちもあらわれた(『華厳経』の毘盧舎那仏 Vairocana、 『阿弥陀経』などの無量光仏 Amitābhaなど)。さらにこの仏智の光被を根拠としてすべての衆生に如来智の滲透していることを説くのが,『華厳経』の性起品や『如来蔵経』にはじまる如来蔵思想である。そこでも如来の法身は無為なる真如と智が不離・不可分に結びついているとされる。また,『華厳経』の十地品の唯心の説にもとづきつつ,われわれの日常心の特質を識すなわち認識機能に見出し,その虚妄性(虚妄分別)を主張する唯識説では,仏の智を悟りにおける無分別智(avikalpa-jñāna)と,それにもとづいて利他のはたらきをする後得世間智(tatpṛṣṭhalabdha [laukika]jñāna) (有分別ではあるが,無漏・清浄と規定される)とに分け, また前者を〈ありのままなる智〉(如理智, yathāvadbhāvikatā 如所有性),後者を〈あるかぎりはたらく智〉(如量智,yāvadbhāvikatā 尽所有性)と規定する。また,凡夫の有分別なる識は,瑜伽行の実践を積んで,「唯識観」を体得するのに応じて,無分別智に転化し(転識得智),さらにそれが,種々の後得智となってはたらくものとされた.すなわち『仏地経』に説く大円鏡智(ādarśajñāna)〔無分別智〕,および,平等性智(samatā-jñāna),妙観察智(pratyavekṣaṇa-jñāna),成所作智(kṛtyānuṣṭhāna-jñāna)である(この四智に,仏の三身が配当される)。この説では識から智への転換の行なわれる土台として,清浄法界(真如に相当)を説き,仏はそこに智の加わったものと考える。換言すれば仏の法身を法界と智とに分解し,智が瑜伽行の成果たることを強調する(智はしたがって,無漏ではあるが,無為ではない)。しかし,後代展開する密教では,大毘盧遮那(大日如来)の名のもとに,清浄法界そのものを法身とみなし,これに法界体性智の名を与え,四智とあわせて五智,五仏の説を主張した。(高崎直道)

密教

 内在と超越の両極よりなる仏教の実在観念において、智慧は内在的には、ものごとを認識し理解する能知的精神作用であり、 prajñāがどちらかといえば非対象的、本質直観的であるのに対し、 jñānaには対象判断的色あいが強い。また、この対象判断的智慧による認識の結果としての知識ないし真理的命題(教として他者に伝達し得る……)も智慧の一局面をなす。  その超越的側面において、智慧は仏の智慧として、その知的Wissen的側面の対極に、存在的Sein的側面を配しつつ、仏教的実在者の内実を標示する。智慧のかかる性格は、その祖型として、sat(存在)でありcit(精神)であり ānanda(歓喜)であるブラフマン(brahman、梵)のsatとcitのあいだに形成される両極構造を考えると理解しやすい。バラモン哲学におけ汎宇宙的実在たるブラフマンは自体瑜伽・禅定体験の反映であるが、瑜伽の体験は必ず実在(dharma、法)の観念を前提として有する。釈尊の成正等覚の原点に瑜伽の根本体験を想定するとき、そこに現成する実在たる明(vidyā、明知)は、一種の智慧であり、術語を用いるなら無分別智、根本無分別智として、能所未分、したがってそれと瑜伽した、という自覚をも欠くもの、すなわち、存在そのもの(Sein、sat)であったと想像される(われわれは仮にそれを〈女性単数のdharma〉と呼ぶ)。しかし、その純一無相なる釈尊の心地、すなわち、内在と超越との融合。瑜伽の場(matrix 母胎、garbha)に「諸法が顕現する」(pātubhavanti dhammā)が、それら「諸法」(〈男性複数のdharma〉)は一説に(『怖駭経』)、そのノエマ〔思考された対象〕的側面においては釈尊の一切の過去世における無数回の生のすべて、そして、一切衆生のそれぞれの一切の過去世におけるすべての生であったとされる。この多様なる相としての「諸法」の顕現をまって釈尊の内面に(それは釈尊以外の人には存在しないという意味において……)内実と形象を具備した世界(〈中性単数のdharma〉)が形成されるのであるが、このノエマ的イメージの生起に対応してノエーシス〔思考作用〕的側面は対象的認識としての智慧、すなわち後得智として生起し、それらのイメージを意味的連関のうちに統合して、最終的には、人間の生とその場たる世界に関する形而上学的認識=智慧の獲得として結実する。  すなわち、対象的認識としての智慧の極限において、人間および世界の存在の存在論的基盤(後代の言葉でいうならば「諸法の実相」dharma-svabhāva)は、まず覚者たる釈尊自身にとっては明・明知という智慧として、そして、彼の対極にある迷える衆生にとっては無明(avidyā)として認識され、縁起説(たとえば四諦や十二因縁)をその表現として、その根抵をなすところの、隠れた最終的な真理の命題=智慧を形成したのである。  釈尊によって獲得されたこの智慧(真理ないしその命題)は、やがて、慈悲という新たな契機を得て一切衆生の上に流出する。そして、この存在Seinを無明と明との両極構造において把握するこの智慧(教として与えられた知謝)は、それに聴従する人びと(弟子たち)の生の範型を一義的に規定する。すなわち、一生涯を目途として(「現法に」diṭṭhe va dhamme)、明・明知への合入をめざす出家主義による梵行(brahma-cariya)の生であり、その合入の境地こそが楽なる「不死」(amata)、すなわち、涅槃である。釈尊によってはじめて明るみにもたらされた存在のこの無明と明の両極構造という最終的真理は、それが存在の規定性そのものなるがゆえにそれを聴きつつも従わない人びと、すなわち、あえて在家主義にとどまらんとする人びとの生をも、別のしかたで規定する。存在Seinを無明であるとする規定は彼らに在家主義を許さない。存在の観念から無明を排除しようとする彼らの暗黙の動機はやがて彼らに智慧にして存在である般若波羅蜜(prajñā-pāramitā)という概念を案出せしむるが、般若波羅蜜それ自体は無明と明との両極構造をとる釈尊の存在観念(〈女性単数〉のdharma)の明・明知の一面を見たものにほかならず、他者(衆生)に対する愛(慈悲)という原理を最終的根拠とする在家主義の根本が忘れられて六波羅蜜ないし十波羅蜜の体系のなかで般若波羅蜜が一元論的に強調されるとき、それはただちにそれにただひたすら帰滅せんとする出家主義的な瑜伽の宗教に逆転する。在家主義を根拠づけうる唯一可能なる途は、この世界を仏・釈尊がそれを実現したところの智慧としての法身、すなわち、一切智智(sarvajña-jñāna)とみなす世界観である。  一切智智とは、天台智顗的用語によるなら世界質料としての純一無相の智慧(一切智、 sarvajñāna)を基盤とし、その上に慈悲の原理によって一切衆生を対象としてその個別相を認識する道種智を現出せしめたものである。そして、この仏の法身・一切智智を空であるとみなすことにおいて、在家主義を本義とする大乗仏教が成立する。法身・世界の空とは、一切衆生を包合する極大の世界の成立と存続の条件が一にかかってその極小部分であるわれわれの主体的決意と実践にある、ということである。ちなみに華厳において、その条件はないしである。この世界観の成立根拠は釈尊自身の生に求められる。『怖駭経』がいうごとく、釈尊の瑜伽の心地に顕現した「諸法」が彼および一切衆生の一切の過去の生であったなら、それらの生のすべては、釈尊の無上正等覚の実現のために必須のものであったはずである。したがって、もしわれわれが自らの理想を将来の成正等覚におきなおすなら、われわれの現在の生は、その理想にいたる必須の段階の一つとして、ただし、正しく生きられねばならない。正しく、とは、仏によって教として与えられた世界の正しいイデーに従って、そして、他者、一切衆生に対する慈悲にもとづいて、である。この場合、教とは、仏の智慧・一切智智の知識という一面である。したがって教を信解し、その教に示される世界に対して、慈悲にもとづいて自己を実践的に関与させる決心をしたとき、すなわち、願を発したとき、あるいはその実践(行)の第一歩において、一切智智としてのその世界は如幻に顕現する。しかしながら空なるその世界は、自らの無上正等覚にいたるまで永遠に持続する行によって担われねばならない、このように、小乗の徒の生が〈女性単数のdharma〉の無明と明の両極構造によって梵行として規定されたのに対して、大乗の徒の生を、永遠に持続すべき、他者に対する慈悲にもとづく利他の直接的行として規定したものは、大乗的実在観念たる法身、一切智智の空、一切諸法の空という命題ないし知識としての智慧であり、無明という自らの対極を放棄した般若波羅蜜はその超越的側面において生に対する規定性を放棄し、静止的な空性(śūunyatā、空なる世界の存在論的基盤)としてとどまっていたのである。しかし、やがてタントラ仏教の時代になると、それは一方において人を喰う恐ろしい鬼女、しかし、他方において人に解脱をもたらす恵み深い女性(般若)という両面を有する荼枳尼(ダーキニー)、あるいは瑜伽女(ヨーギニー)、すなわち、母たちの集団として外在化され、それと瑜伽した男性に、ただちにそれ自体智慧にして快楽であるサンヴァラ(saṃvara、最勝楽)という宗教理想をもたらしうる場(matrix)として、 〈女性単数のdharma〉の無明と明の両極構造を回復して般若・母系タントラを成立せしめたのである。(津田真一)→般若思想

〔参考文献〕西義雄『原始仏教に齢ける般若の研究』大倉山文化科学研究所,昭28(改訂版,大東出版社,昭53);佐々木現順『阿毘達磨思想研究』清水弘文堂,昭33;水野弘元『パーリ仏教を中心とした仏教の心識論』山喜房仏書林,昭39(改訂版,ピタカ,昭53);平川彰『インド仏教史』上,春秋社,昭49