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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2022年3月22日 (火) 18:46時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (大乗の法身)

法身

dharma-kāya (S)

 元来は,歴史的仏陀たる釈尊の滅後にも依然として存在し,人びとを導き,あるいはその崇敬の対象であったはずの法(dharma)を,可死・有漏なる釈尊の肉身(生身)に対して,仏の不死・無漏なる身体(kāya),すなわち法身とみなしたもの.法という概念が多様な解釈を許容するのに対応して,仏教の歴史的発展の方向と関連しつつ,多様な内容をとる.この法(ダルマ)を教法とするなら,一例として『大般涅槃経』の「自燈明・法燈明」の説(DN、Ⅱ.100)に従って,仏滅後に人びとを導くべき法身は経と律(DN、Ⅱ.154)であるはずであり,また,それを釈尊が証得された功徳としての法とするならば,戒・定・慧・解脱・解脱知見の五分法身のごときがその内容を形成するであろう.しかしその後に展開した法身の観念を一貫して規制してきたものは釈尊の成正等覚の根本体験において証得され,かつ,梵天の勧請をまって広く衆生に開示された,すなわち釈尊の体験としての世界そのものたる法の観念にほかならない.
 釈尊は人間の生をその根底において根拠づけているはずの最終的真実(実在ないしその実在に関する真理)の未実現に由来する根源的不安と生の意義に関する懐疑,さらにその解決の前途を見出せないままにますます現実の生の苦の実感に耐えかねたるごとくに出家し,激しい苦行を含むあらゆる試行錯誤的努力のすえ,深い瞑想のうちに,ついに絶対的体験に到達した.
 この体験は解釈学的には女性形単数によって指示されるべき法との神秘的合一(unio mystica)すなわちヨーガであったと想定される.純一無相なる世界質料(prakṛti)たるこの女性形単数の法との合一の境地はそれ自体本来何らかの形象をも含まず,したがって無時間的であるが,やがて釈尊のこの心地に,『律蔵』「マハーヴァッガ」冒頭のウダーナにいう「諸法」,すなわち男性形複数の法が「顕現」する,すなわち形象としてあらわになってくる(prādur-√bhū).この複数なる形象は,『怖駭経』がそれを端的に,釈尊自身および一切衆生の過去における一切の生が,それを現起せしめた因果関係の連鎖において,その意味を,したがってその意義を明示された如実の相において示されたもの,とするごとく,それまでの釈尊の自己および一切衆生をその契機とする問題意識が彼のそれまでの一切の努力の結果,さらに瞑想の力によって,内在と超越とが一致するその合一の根源的体験の一点に収束され,そこで反転して,それらが解決せられたかたちにおいてその合一の心地に再浮上したものと解釈される.
 この,合一の体験をまって釈尊の内面(悟りの母胎, garbha)に実現した事態は,女性単数の質料のうえに男性複数なる形相を具備した,一にして全なる自己充足的実在,すなわち,中性単数の法であると表現されうるのであるが,法身の原型は,まず,それが無相なる全一の基層のうえに多様なる形象を具備したものであるという事態によって示されるのである.釈尊はその深い融合感のうちにそれら真実なる諸相を観照し,そのあり方を概念的に把握し,言葉として,すなわち,実在(ダルマ)に関する真理の命題として獲得する.そして,この言葉としての法の獲得をまって釈尊に成正等覚の自覚(解脱知見)が成立するのであるが,やがてこの言葉としての法は,衆生に対する慈悲というもう一つの原理をまって一切衆生のうえに流出し,一切衆生を包含する(ここに,法身の一切衆生という契機が準備される).
 言葉として衆生に開示された法の当体は一義的に衆生の生を規制する.人間に内在する自然的傾向の抑止たる梵行(brahmacariya)の生,出家主義である.
 その場合,彼ら釈尊の弟子たちの目標は無相なる女性形単数の法への帰滅,すなわち涅槃であり,彼らにその後世界の形象が「顕現」することは必要とされない.彼らは釈尊と同じように悟る必要はなく,救われればそれでよいからである.

大乗の法身

 大乗の法身の観念は釈尊の根本体験によって設定された規制枠のうえにのりつつこの小乗的理想の根本的な転回、その否定にもとづく新たな展開としてある。
 釈尊がそれを証悟した女性単数の法とは、衆生にとっては無明,悟れる釈尊にとってはである。この実在の根本的構造

――それを仮に無明と明の両極構造と呼ぼう。なお、『智度論』の龍樹はこの事態を的確に「菩薩求無明体。即時是明。所謂諸法実相名為実際」と表現している(T25-697a)――

が釈尊の弟子たちの生を、その無明の必然的な流れに逆行するもの、まさに「世流に逆らう」(paṭisotagāmi (P))〔逆流行補特伽羅。貪瞋痴の三毒を厭い、常に努めて修行する人をいう。流とは煩悩をいう。〕ものたる梵行として規制したのである。大乗運動の根本には、この出家主義の原則に反するところの、人間性の自然的傾向に対する肯定・在家主義の意図が秘められている。それが釈尊の実在の構造そのものが設定した釈尊の宗教の絶対的原則に違反して定立せられねばならなかったときに、大乗の理想としての法身・一切智智の諸条件が決定されたのである。在家主義にもとづく世界措定の根拠は、出家主義の世界観を決定した根拠たる釈尊の女性単数の法、すなわち、無明即明なる諸法の実相。実際のほかに求められねばならない。大乗はそれを、他者に対するプラクシス的連関、すなわち、利他の直接行に求める。その根拠は、釈尊を説法にふみきらせた彼の慈悲にある。釈尊の融合体験のなかに「顕現」した諸法、すなわち、男性形複数の法は、正覚を成じた釈尊にとってすでに克服された彼および彼以外の他者・一切衆生の生の如実の相であった。したがって、現在の凡夫にとって、その生は、それがいかに愚悪なるものでも、もし彼が、成仏という理想を自らに設定するならば、それはその理想にいたる必須の段階として、生きられねばならないという解釈の可能性が生じる。ここに大乗の法身の条件として、凡夫である自己の無上正等覚という理想と、そして、その必須の段階としての他者・一切衆生のすべての生という時空を包括した(甚深広大の)場・視野が設定される。かくて、大乗の法身の観念は、世界の実在的基盤(śūnya なる世界の成立基盤としてそれ自体は空ならざる、実相たるśūnyatā)のほか、無底なる個人に根拠をもつ諸条件によって、すなわち世界のイデー(一切衆生の生を包括した存在者の総体のイメージ・)とさらに慈悲という原理を自覚的に採択してそのイデーとしての世界に自己を企投する決意(願)にもとづき、その実行(行)の第一歩において、その個人にとって如幻に、しかもその完成したかたちにおいて顕現する美しい形象(Schein)に充満した総体として措定される。しかも、その如幻なる世界は、自己の成正等覚という永遠の理想にいたるまで、不断に自己の実践(行、 caryā)によって自己の一身の上に担いつづけられねばならない。
すなわち『十住毘婆沙論』の龍樹が易行品において

行大乗者仏如是説。発願求仏道、重於挙三千大千世界。    〔T26-41a〕
大乗を行ずるものには、仏かくのごとく説きたまへり。「願を発して仏道を求むるは三千大千世界を挙ぐるよりも重し」と。〔p.5〕

というゆえんである。
 この、空ということをその最も深い意味において体現する大乗的世界観の当体としての法身の観念は、極大なる世界の極微の部分としての各個人のうちに、それぞれ、世界がその全体において包含されており、かつ、それら世界が厳然として唯一であるという根本構造において釈尊自身の体験としての法身の構造の規制枠を逸脱するものではない。ただし、男性複数の法と女性単数の法による世界の存在論的二層分割(ただし、これら上下両層は不一不二である。あるいは両極構造をなす)において、表層たる男性複数の法のうえに、世界の存在性をその極限値まで負わせたものということはできる。この事態は、『華厳経』において、その法身、普賢菩薩の清浄法身(ātmabhāvapariśuddhi)〈ātmabhāva=自体、身、pariśuddhi=清浄〉が、 samantabhadra-caryā-maṇḍala 〈samantabhadra=普賢、caryā=行、maṇḍala=総体〉 と表現されることに端的に示されている。すなわち、法身とは、普賢菩薩がその不可説不可説微塵数劫の過去に実証した、一切の衆生のあいだに設定されうべき重々無尽のプラクシス的連関の一つとしてあますところなき総体(maṇḍala、普賢行とは普賢菩薩の修行、あらゆる民衆の苦しみを救う行)なのである。そこにおいて、基底なる一者の観念は体系の裏側においている。

=密教の法身=

 この『華厳経』の大乗的法身観を継承しそれを象徴主義的に図総マンダラとして表象したのが,『大日経』の大悲胎蔵生マンダラ(mahākaruṇāgarbhasaṃbhava-maṇḍala,衆生に対する大悲を契機として,その内証としての諸相が,悟りの母胎から一切衆生のうえに流出した,その総体)である.このマンダラを法・報・化の三身からみるならば,中尊としてのペルソナ的仏たる報身と,その報身から展開してマンダラの内実をなす化身に対し,それら諸尊の総体としてのマンダラ全体が法身の観念に相当する.ただし,それは単なる集合的全体でなく,一個の超越的仏格としてやはりペルソナ的に把握される傾向にあり,この点で中尊たる報身と一種の両極構造をなす.
 なお,『大日経』のマンダラにおいて,化身は本質的に向上途上の凡夫の,ただし大乗を経過したことによって,すなわちイデー としての世界の内実として,成仏の理想によって浄められたかぎりの相であったが,大乗的行したがって時間の観念を否定する瑜伽・即身成仏の宗教たる『金剛頂経』のマンダラにおいては向上の衆生に対応する部分は脱落し,法身はすでに理想に到達したものとしての一切の如来たちの統体としての,ないし,それが五仏に集約された五仏の総体としての曼茶羅全体であり,それは,衆生の主体的条件に関わりなく自体で存在しうる中性単数の法として,衆生の外側に設置されたのであるが,さらにタントラ仏教の極たる『ヘーヴァジュラ』にいたるや,この中性単数の法の存在性を分担する五仏・五族が,女性単数の法たる大母神カーリー(Kālī,すなわちsatī・女性としての存在そのもの)のその存在を分担する女性たち(母たち)である五人のヨーギ ニーに等置されることにより,明(vidyā)=般若波羅蜜=明妃とみなされる彼女らのグループ(ヨーギニー・チャクラ)との性的 瑜伽により,釈尊の宗教における女性単数の法との瑜伽に呼応する事態が復活され,その無時間的に実行しうる瑜伽によって,即身成仏は可能となり,ここに中性単数の法なるサンヴァラ(saṃvara,最勝楽)を宗教理想とする般若・母系タントラが成立し密教の完成態を示すことになったのである.