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パキスタン

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

パキスタン

Pakistan 

現在のパキスタン

インド亜大陸北西部、ほぼインダス川流域の乾燥地域を占める国。正式名称はパキスタン・イスラム共和国Islami Jumhuriya Pakistan。西はイランとアフガニスタン、北は中国、東はインドと接し、南はアラビア海に面する。面積79万6095平方キロメートル、人口1億3235万2279(1998)。首都はイスラマバード。パキスタンとはウルドゥー語で「清浄なる国」を意味すると理解されている。

自然・地誌

 パキスタンの地形は、北および西を取り巻く第三紀の新期造山帯に属する山地部と、インダス河谷の沖積平野部とに大別される。さらに山地部は北部山地と西部山地とに、また沖積平野部はインダス川の中流域平野と下流域平野とに細分される。
 北部山地は北西から南東へと走る褶曲山脈の列からなる。もっとも外側の中国との国境沿いに走るのが世界第2位の高峰K2峰(8611m)を主峰とするカラコルム山脈で、8000m級の高峰4山を擁している。同山脈の諸山群の間にはビアフォ氷河(全長68km)などの大氷河があり、世界で最大規模の山岳氷河地帯をなす。同山脈の南を走るのが大ヒマラヤ山脈の一角をなすパンジャーブ・ヒマラヤ山脈で、その北西端にナンガ・パルバト山(8125m)がそびえるが、標高6000m級の山々が多く、カラコルム山脈に比べて高度は低い。さらにその南には、小ヒマラヤ山脈にあたる高度3000~4000m級のピル・パンジャル山脈、そして高度1000mほどのシワリク丘陵へと高度を低めつつインダス川中流域平原へと移行していく。北部山地はインド亜大陸の北辺障壁の一環であるが、古来、中国に通じる交通路がここを通過していた。ミンタカ峠越えはその代表的なルートであった。
 独立前のイギリス領時代には、西端部を除いて、北部山地の大部分はジャム・カシミール藩王国に属していた。1947年の独立と同時にその領有をめぐって印パ両国間でカシミール紛争が勃発した。その結果、現在は1949年の停戦ラインに従って、北西の8.4万平方㎞はパキスタン、南東の13.8万平方kmはインドの管理下に置かれている。しかし、この停戦ラインをめぐって両国の争いは絶えない。
 西部山地は、アフガニスタン国境に沿って南西走するヒンドゥー・クシ山脈とその支脈からなる。歴史上名高いハイバル峠(カイバー峠)以南では、同山地は高度を低下させ、東部に大きく張り出して三つの高原地帯を形成する。第一は同峠付近から広がるペシャワル谷とポトワル高原であり、前者は北西辺境州の中心部にあたる。またそこは、歴史上インド亜大陸と西方世界とを結ぶ門戸の役割を果たしてきた。たとえば、紀元前1500年ごろのアーリア人、前6世紀のダレイオス大王、前4世紀のアレクサンドロス大王をはじめ、西方からの諸勢力はここを経てインド亜大陸に侵入した。また仏教とギリシア彫刻との結合とされるガンダーラ仏は、やはり西から進出してきたクシャン朝時代(紀元後1世紀末ごろ)にここで成立した。第二の高原は、その南に位置する西のトバ・カカル山脈と東のスライマン山脈に囲まれたロラライ高原であり、また第三はキルタル山脈以西に広がるマクラーン山脈と高原である。バルーチスターン州はこの二つの山地と高原地帯を包括する。ここもボーラン峠を経てアフガニスタン南部またイランへと通じる交通上の要地である。
 インダス川下流域平野は、シンド平原にあたる。パンジャーブ平原を過ぎると、インダス川は激しい乾燥地帯を流れるため、流入する水量の多い河川もなく、下流に向かうにつれて水量が減少していく。そのためガンジス川に比べると、下流部における沖積平野およびデルタの発達は小さい。

歴史

 パキスタンは、世界の四大文明の一つインダス文明の成立地である。同文明の代表的遺跡とされるモヘンジョ・ダーロはシンド平原北部に、またハラッパーはパンジャーブ平原南部に位置する。この意味ではパキスタンは古い歴史をもつ。