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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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如来

tathāgata

 覚者となったものに与えられる敬称の一つで、漢訳では, tathā-āgataと理解したために, 真如より来たれるもの、という意味から如来となっているが, tathā-gataと理解すれば、真如に到達したもの、ということになる。
 真如すなわちtathāとは、ありのままの姿、ということであり、現代的にいえば「真理」ということになるから、如来というのは、自らが真実の理を覚り、この世の人びとに、その真理を伝えるためにやって来たもの、ということになる。
 日本の仏教においては、釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来・大日如来、といった用い方をしており、仏または仏陀とともに、きわめてしばしば用いられている。音写すると、多陀阿伽多・多陀阿伽度。但他蘗多などとなるが、経典中には用いられていても、一般的にはほとんどこれらが用いられることはない。
 この言葉の意味については、多くの経論に説かれているが、『十住毘婆沙論』巻1には、次のような11の意味が述べられている。

  1. 真実にいたる。
  2. 実相に到達してその義に通達する。
  3. 自ら三解脱門に到達し、また衆生をもそこに到達せしめる。
  4. 四諦を見る。
  5. 六波羅蜜の実践を通して仏の境地に到達する。
  6. 四功徳処によって仏の境地に到達する。
  7. 一切の教えの真理性にもとづいて仏となる。
  8. 菩薩の十地を経て究極のさとりにいたる。
  9. 如実なる八聖道が実現される。
  10. 般若波羅蜜と方便という二本の足で仏となる。
  11. 去って還らぬ。

という意味である。このうち、最後の意味に解すれば如去となり、前の十の意味では如来となる。いずれにしても、如という文字を「如実」と理解し、それを仏教におけるさまざまな教義にあてはめ、そこに来至する、という意味に解したわけである。