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しょうれんいん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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青蓮院

京都市東山区粟田口三条坊町。天台宗。梶井門跡、妙法院門跡と並ぶ延暦寺三門跡の一。粟田口御所という。

 天養元年(1144)行玄(藤原師実の子)が住した三条白川房に始まる。仁平3年(1153)鳥羽法皇のとき殿舎を造営し、甘露王院と号したが、比叡山東塔南谷にあった行玄の旧房、青蓮坊の名をとって青蓮院と称し、合わせて皇子覚快法親王を入寺させた。
 そののち歴代法統は皇族が継ぐこととなったが、仁安2年(1167)慈円に譲られた。この間、親鸞が当院で得度し、以後本願寺と密接な関係となった。
 元久2年(1205)当地に最勝四天王院が建立されるに当たり、房舎は吉水に移されて吉水房と称し、慈円もここに住して宗風を揚げた。貞応元年(1222)最勝王院の地を還付され、嘉禎3年(1237)にはその地に吉水房も移建、背後にあった十楽院と門跡を兼務した。
 建武二年(1335)伏見天皇皇子尊円法親王が入寺、書道に秀で青蓮院流の一派をたてた。応仁の兵火で焼亡したが漸次復興。天明8年(1788)皇居炎上の際には光格天皇の仮御所となった。
 明治26年(1893)再び焼失したが、同28年に再建された。本堂は熾盛光堂(しじょうこうどう)と呼ばれる。

国宝

  • 絹本著色不動明王及二竜子像(青不動)

重文

  • 絹本著色普賢延命像
  • 後光厳院展翰御消息
  • 慈円僧正消息

ほか