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しんごんしゅう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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真言宗

日本仏教の一宗派で、真言密教、真言陀羅尼宗(だらにしゅう)ともいう。開祖は空海(弘法(こうぼう)大師)。中国の唐代における密教を、平安初期に空海がわが国に伝えて一宗として開いたもの。真言はマントラ(mantra)の訳で、教主大日如来が説いた真実のことば。類語に陀羅尼明呪密言などがある。真言の教えを中核とする意味で宗名とした。

歴史

 インドでは4世紀ころから除災招福のいわゆる雑部(ぞうぶ)密教の経典が盛んに行われ、4~6世紀のグプタ朝全期を通じて、仏教における儀礼儀式、真言、印契(いんげい)、曼荼羅(まんだら)などが発達し、7世紀ころ『大日経』『金剛頂経』の両部の経典が相次いで成立し、組織的、体系的な密教が完成した。
 両部の密教は8世紀なかばころ、善無畏(シュバカラシンハ)、金剛智(バジラボディ)、不空(アモーガバジュラ)によって唐へ伝えられ、密教の最盛期を迎えた。9世紀の初め、空海が入唐(にっとう)して、長安(現在の西安)の青龍寺東塔院の恵果から大日・金剛頂両部の密教を授かり、帰国後に独自の立場から真言宗を開いた。

 密教の相承は二つある。一つは付法の八祖で、

大日如来 → 金剛薩埵 → 竜猛 → 竜智 → 金剛智 → 不空 → 恵果 → 空海、

他は伝持の八祖で、

竜猛 → 竜智 → 金剛智 → 不空 → 善無畏 → 一行 → 恵果 → 空海

と伝承された。
 空海は帰国後、京都・高雄山寺(たかおさんじ)に住し、その後、高野山を修行の道場として開創し、また根本道場として嵯峨天皇から東寺教王護国寺)を給預された。
 空海の十大弟子のうち実慧(じちえ)は東寺の、真然(しんぜん)は高野山金剛峯寺の発展に努めた。その後、益信(やくしん)(本覚(ほんがく)大師)と聖宝(しょうぼう)(理源(りげん)大師)によって密教の法流は継承され、益信の弟子の宇多(うだ)法皇は仁和寺を開山した。聖宝は醍醐寺を開山し、また大和(やまと)(奈良県)金峯山に登って修行し、修験道の中興の祖と仰がれる。聖宝の弟子観賢(かんげん)は醍醐天皇に奏上し、空海に弘法大師の諡号(しごう)を賜った。皇室・貴顕の帰依(きえ)が多くなり、造寺・造像・写経などとともに修法(しゅほう)も盛んに行われ、実修面(事相東密)の分派が始まった。
 益信の流れをくみ京都・広沢(ひろさわ)に遍照寺(へんじょうじ)を建てた寛朝(かんちょう)の広沢流、聖宝の流れをくみ京都・小野に曼荼羅寺(まんだらじ)を建てた仁海(にんがい)の小野流に分かれ、それらを野沢(やたく)二流という。のちにそれぞれ六流に分かれたので、野沢十二流、その後さらに分派して鎌倉時代には東密三十六流を称した。
 高野山は大師入定の聖地、高野山浄土の信仰の山として栄えたが、一時衰微した。1016年(長和5)定誉(じょうよ)が復興し、このころ藤原道長・頼通(よりみち)父子が登山し、また院政期には白河(しらかわ)、鳥羽(とば)両上皇の登山、帰依を受けた。

 覚鑁(興教(こうぎょう)大師、1095―1143)は高野山に大伝法院(だいでんぽういん)を建て、空海の教学の復興に努めたが、金剛峯寺側と相いれず、紀州(和歌山県)根来山(ねごろさん)に退いた。140年後、頼瑜(らいゆ)、聖憲(しょうけん)らが根来寺大伝法院の教学を確立したので、のちに覚鑁系を新義派、伝統的な教学を古義派というに至った。覚鑁は高野山教学の中興の祖、新義派の祖師と仰がれる。
 鎌倉初期、高野山に覚海(かくかい)が出、門下の道範(どうはん)、法性(ほっしょう)らは高野の八傑といわれた。また、栄西の高弟の行勇(ぎょうゆう)は高野山に金剛三昧院(こんごうさんまいいん)を建てて禅風を伝え、法然(源空)の高弟明遍(みょうへん)は蓮華(れんげ)三昧院を建てて称名念仏(しょうみょうねんぶつ)を広めた。また重源は新別所を開いて浄土念仏の拠点とした。

 このように高野山は諸宗を包容し、真言宗の教学を豊かなものにした。鎌倉時代には新義派は関東方面に広まり、また奈良・西大寺叡尊真言律宗の一派を開いた。
 室町時代に長覚、宥快(ゆうかい)が高野山の教学を大成した。東寺では頼宝(らいほう)とその弟子の杲宝(ごうほう)、また賢宝(けんぽう)が出て、大いに教学を盛んにした。
 1585年(天正13)3月、豊臣秀吉は根来寺を攻撃して壊滅させた。時の学頭の専誉(せんよ)は難を避けて大和(奈良県)長谷寺(はせでら)に移り、同じく玄宥(げんゆう)は京都(後の東山七条智積院(ちしゃくいん))に移って、それぞれ新義真言宗を再興した。これが新義真言宗の豊山(ぶざん)派と同智山(ちさん)派の始まりで、専誉、玄宥はそれぞれその派祖と仰がれる。
 秀吉は木食応其(もくじきおうご)の説得で高野山攻撃を中止し、かえって高野山の再興を援助したので、木食は復興に努め、青巌寺(せいがんじ)と興山寺(こうざんじ)を建てた。

 江戸初期には頼慶(らいけい)が高野山諸法度の制定に協力した。江戸時代全期を通じて多くの学匠を輩出したが、とくに京都・智積院に運敞(うんしょう)、長谷寺に亮汰(りょうたい)が出て並び称された。豊山派の法住快道戒定を天明(てんめい)の三哲という。
 江戸霊雲寺(れいうんじ)の浄厳(じょうごん)、河内(大阪府)高貴寺(こうきじ)の飲光(慈雲尊者(じうんそんじゃ))のように梵学を研究し、戒律復興に努めた人々もいる。
 契沖は真言僧で国学研究に先鞭(せんべん)をつけた。

 鎌倉初期以来、高野聖(こうやひじり)が高野山の信仰を広め、堂塔伽藍(がらん)の復興のため全国を勧進(かんじん)して歩いた。

教理

 『大日経』『金剛頂経』を根本所依の経典とし、これに『蘇悉地経』『瑜祇経』『要略念誦経』を加えて五部秘経という。
 常用経典は『般若理趣経』。また『釈摩訶衍論』『菩提心論』『大日経疏』『金剛頂経義訣』などの論書、空海著作の『十住心論』『秘蔵宝鑰』『弁顕密二教論』『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『般若心経秘鍵』を依用する。空海の立場では顕教と密教とを弁別し、また心の発達段階、修行の向上過程を十住心体系で明らかにする。
 教理的な面を教相(きょうそう)、儀式・作法などの実修的な面を事相(じそう)といい、両者は不可分の関係にある。教相は、本体論(六大)、様相論(四曼(しまん))、活動論(三密)に分けられる。

宗派

 明治初年以来、分立、併合を繰り返し、第二次世界大戦中に一時合同して大真言宗になったが、戦後ふたたび分派した。
 現在は、高野山真言宗(金剛峯寺)、真言宗御室(おむろ)派(仁和寺)、同醍醐派(醍醐寺)、同大覚寺(だいかくじ)派(大覚寺)、同東寺派(東寺系末寺)、東寺真言宗(東寺)、真言宗山階(やましな)派(勧修寺(かじゅうじ))、同泉涌寺(せんにゅうじ)派(泉涌寺)、同善通寺派(善通寺)、同智山派(智積院)、同豊山派(長谷寺)をはじめ48派がある。