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じり

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2008年1月28日 (月) 12:48時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (用例)

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事理

「理事」ともいう。

 物事の道理という意味ではない。「事と理」という意味では、中国仏教で初めて用いられ、なおかつその教学で非常に重んじられた言葉である。その場合、「」は個別的具体的な事象・現象を意味し、「」は普遍的な絶対・平等の真理・理法を指す。

 このような思惟・概念はインド仏教では顕著ではなく、また漢訳仏典にも現れない中国仏教独特のものである。ただし「事理」もしくは「理事」という言葉はみられないものの、「事」と「理」(あるいは「理」と同概念の「道(どう)」)とを対概念として把える思考は、仏教伝来以前の中国固有の思想に既に現れている。
 たとえば、『淮南子』(要略訓)

故著書二十篇則天地之理・究矣,人間之事・接矣,帝王之道備矣
故に書二十篇を著(あらわ)せば、則ち天地の理は究まり、人間(じんかん)の事は接(おさ)まり、帝王の道は備われり

などである。

中国仏教における事理

 中国仏教においては、この「事理」は2種に大別される。 一には、迷情(惑いの心)と真理とを相対(そうたい)(→絶対)し、凡夫などの迷情によって見られた事相を「事」とし、聖人の智慧によって体得される真理を「理」となすもの。 そして、その真理は諸教の高下により異なり、四諦の理、真空の理、中道の理などとされる。

二には、現象と本体とを相対するもので、森羅差別の現象を「事」とし、その本体である平等・無差別の理法たる真如を「理」とする。それはまた、それぞれ「事法界」(事象の世界)、「理法界」(理法の世界)と呼ぶこともある。そして現象としての「事」と本体としての「理」との関係については、各学派にそれぞれの説がある。

諸学派の説

 たとえば、唯識宗では真如(理)は凝然(ぎようぜん)つまりはたらかずにじっとしている固まったものであるとの説をとるから、「事」と「理」とは隔絶したものとなる。

 『大乗起信論』では、個別的事象はいずれも真如から現象したものであるから、「事」と「理」とは相即して無別であるとする。

 華厳宗では、「事」と「理」とは融通無礙の関係であると説き、四法界(事法界・理法界・理事無礙法界・事事無礙法界)や三重観門(真空観・理事無礙観・事事無礙観)などの教理を形成し、普遍的な「理」と個別的な「事」とが一体不可分であることを強調し、「事理」もしくは「理事」の語は中国華厳宗の教理を代表する言葉の一つとなった。

用例

法性の事、法性の理は理事円融す     〔守護国界章(上の下)〕
年来の間、一乗の善根、事理の功徳をもて西方に廻向し     〔法華験記(下83)〕

自利

自利利他参照