ちゅうどう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
中道
madhyamaa pratipad (skt.)
相互に矛盾対立する二つの極端な立場から離れた自由な立場、中の実践のこと。釈迦の見出した方法論の根幹をなす。
「中」とは二つのものの中間という意味ではなく、二つの極端から離れ、矛盾対立を超克することを意味し、「道」は実践・方法を指す。
不苦不楽の中道
釈迦は苦行主義と快楽主義のいずれにも片寄らない「不苦不楽の中道」、精神集中を内容とする八正道によって悟りに到達したとされる。初期仏教ではこの「不苦不楽の中道」が主であるが、「不断不常の中道」「非有非無の中道」も説かれている。
不断不常の中道
断見・常見から離れて縁起のままに生きる修行道のこと。断見とは、人の一生はこの世限りであるとして、死後の世界を否定する考えであり、常見とは、世界が永遠に不滅であり、人間が死んでも我という固定な実体が永続するという考え方である。それに対して、仏教では双方の固定化した考え方を否定して、縁起によって自らも世界も現象しているものとしてみている。
非有非無の中道
すべてのものは存在するという有見、存在しないという無見の極端な考え方から離れた修行道。これらは「有無の二見」といわれている。
これらは、初期仏教から言われていた中道である。これに対して、大乗仏教の中道は、龍樹のまとめた方法論がある。
龍樹の中道
中観派の祖である龍樹は『中論』の第二十四品第十八偈において、縁起と空性を中道とをほぼ同義語として扱っている。これによって、龍樹は釈迦の中道への回帰を宣言している。450偈中ただ一回のみ使われているこの偈に基づいて、『中論』と名付けられている。
後、龍樹の教えをついだ中観派では、いっさいの法(存在)は世俗においては無ではなく有であり、勝義においては有ではなく無であるということが中道であるとも説いている。
中国の中道
中国仏教においては、中道の分類は多岐を極めた。
三論宗の吉蔵は、空にも有にもとらわれない無得正観(むとくしょうかん)に住することを中道であるとし、また世俗の存在を実法は滅するが仮名(けみょう)は存続するので不常不断と見る「俗諦中道」、究極の立場から見れば不常でも不断でもなく空(無自性)なのだとする「真諦中道」、俗の立場にも究極の立場にもとらわれない「二諦合明中道」の3種を説いた。
天台宗の智顗は『中論』に基づいて空(存在には自性、実体はない)、仮(ただし空も仮に説かれたことである)、中(空にも仮にもとらわれない立場)の「三諦円融」を主張し、すべての存在に中道という実相が備わっているという「一色一香無非中道」を説いた。
日本の中道
日本の法相宗においても、唯識の三性説に基づいて、認識のあり方は、
の3種に分かれるが、これらは全体としては有でも無でもない中道をあらわすとする「三性対望中道(さんしょうたいもう の ちゅうどう)」等の説が説かれた。