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ほっしん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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法身

dharma-kāya、धर्म काय (S)

 法身・報身(ほうじん)・応身(おうじん)の三身(さんじん)の一つで、真理そのものとしてのブッダの本体、色も形もない真実そのものの体をいう。真理()の身体、真理(法)を身体としているものの意味で、「法仏(ほうぶつ)」「法身仏(ほっしんぶつ)」「自性身(じしょうしん)」「法性身(ほっしょうしん)」などともいう。

  • 部派仏教の時代、説一切有部(せついっさいうぶ)では、仏陀(ぶっだ)の肉身である生身(しょうしん)に対して、仏陀の説いた正法(しようぼう)や十力(じゅうりき)などの功徳(くどく)を法身と呼んだ。
  • 大乗仏教では絶待的な真理を法身という。
  • また、如来蔵(にょらいぞう)説では、如来蔵が煩悩(ぼんのう)を離れてそれ自身を現したものをいう。
  • 法身の本性(ほんしょう)については、密教では自性(じしょう)・受用(じゅゆう)・変化(へんげ)・等流(とうる)の四身をすべて法身とみなす四種法身を説いている。
 初期の段階から、師(シャカムニ)にゆかりがあるということで神聖化された数カ所の聖地において、不可視なる存在への崇拝が、仏教徒たちによって行われていたことは疑えない。その存在が、後の仏教徒たちによって「法の体(dharma-kāya)」として形式化されたのである    〔サミュエル・ビール 中国の仏教〕
 ここには、後に不可視なる存在という考えや形式が登場してくる、その萌芽がある。dharma-kāya(仏陀の法の体)を表す法(dharma)の教えと力とが、僧団に与えられ、崇拝されることとなったのである。 〔〃〕

法身

dharma-kāya (S)、dhamma-kāya (P)、chos-kyī sku (T)

 法の身という意味であり、法仏・法身仏・自性身・法性身・如如仏・宝仏・第一身などとも言う。仏の説いた正法および仏の得た無漏法、さらに仏の自性である真如・如来蔵を指して言う。

 釋師世に出でて壽極めて短し。肉体逝くと雖も法身在り。当に法本をして断絶せざらしむべし。  〔『増一阿含経』1 序品〕
 我れ滅度の後、法当に久しく住すべし。‥‥我れ釈迦文仏は寿命極めて長し。然る所以は肉身は滅度を取ると雖も法身存在す。  〔〃44〕
 我が滅後に於て波羅提木叉を尊重し珍敬すべし。‥‥今より已後我が諸弟子展転して之を行ぜば、則ち是れ如来の法身常住し而も滅せざるなり。  〔『仏垂般涅槃略説教誡経』〕

 これは仏が説いた法蘊を法身と名づけ、その法の滅尽しないのを法身常住とするものである。
 無著の『金剛般若論』巻上に、法身に言説法身、証得法身の2種あることを説いて、

 言説法身とは謂く修多羅等なり。

と言っている。
 また

 諸仏如来に二種の法身あり、何等をか二と為す、一には寂静法界身なり、無分別智の境界なるを以ての故なり。‥‥二には彼を得んが為の因なり、謂く彼の寂滅法界の説法なり。化すべき衆生に依りて説く。彼の説法は名づけて習気と為す。  〔『究竟一乗宝性論』4無量煩悩所纏品〕

とあるのは、共にみな仏所説の正法を法身と名づけている。
 ただし、仏所説の正法に関して、『雑阿毘曇心論』10には、正法に俗正法と第一義正法の2種あることを説いており、俗正法は言説正法であって経・律・阿毘曇の三蔵を指し、第一義正法はそれらの顕かすところであって、即ち三十七覚品を指すと言う。
 また『倶舎論』29に、正法の体に2種あり、1に「教」とは契経調伏対法であり、2に「証」とは三乗の菩提分法なりと言っている。説一切有部では、第一義正法である三十七覚品を帰依する所の体として、これを法身としているのである。

 今此の身は父母に生長せられ、是れ有漏法にして所帰依に非ざることを顕す。所帰依とは謂く仏の無学を成ずる菩提法爾して、即ち是れ法身なり。  〔『大毘婆沙論』34〕
 仏所得の無学法に帰するを帰仏と名づく。仏の成就する所の無諍等の諸の有漏法に帰せず。  〔『雑阿毘曇心論』10〕

と、生身と法身の2種が説かれている。また、仏所得の諸々の不共法などを以て法身としている。

 法身は等し。謂く一仏が十力・四無畏・大悲・三念住・十八不共法等の無辺の功徳を成就するが如く、余仏も亦爾り、故に平等と名づく。  〔『大毘婆沙論』17〕
 声聞の人及び菩薩は念仏三昧を修するに、但だ仏身を念ずるのみに非ず、当に仏の種々の功徳法身を念ずべし。  〔『大智度論』24〕
 生身の為の故に三十二相を説き、法身の為の故に無相と説く。仏身は三十二相八十随形好を以て而も自ら荘厳し、法身は十力・四無所畏・四無礙智・十八不共法の諸の功徳を以て荘厳す。  〔〃 29〕

 鳩摩羅什の『大乗大義章』巻上に

 小乗部の者は諸の賢聖所得の無漏の功徳を以て、謂く三十七品及び仏の十力・四無所畏・十八不共等を以て法身と為す。又三蔵経は此の理を顕示するを以て亦法身と名づく。是の故に天竺諸国には皆云はく、仏には生身なしと雖も法身猶ほ存すと」

と言っている。これによると、小乗諸部においては仏所説の三蔵およびそれが所詮の菩提分法、または仏所得の無漏の功徳法をもって法身と名づけていることが分かる。
 大乗においてもこれらを用いているのだが、さらに別の仏の自性である真如浄法界を法身と名づけて、法身は即ち無漏・無為・無生・無滅であるとする。

 諸の如来の身は即ち是れ法身にして思欲の身に非ず、仏は世尊にして三界を過ぐと為す。仏身は無漏にして諸漏已に尽き、仏身は無為にして諸数に堕せず。  〔『維摩経』巻上 弟子品〕
 自ら身の実相を観ずるが如く、仏を観ずるも亦然り。我れ如来を観ずるに前際より来らず、後際に去らず、今則ち住せず。  〔〃巻下 見阿閦仏品〕
 如来身とは是れ常住身、不可壊身、金剛の身にして雑食身に非ず、即ち是れ法身なり。‥‥如来の身は身是れ身に非ず、不生不滅不習不修なり。  〔『大般涅槃経』3 金剛身品〕
 大乗部の者は謂く、一切法は無生無滅語言道断心行処滅、無漏無為無量無辺にして、涅槃の相の如き是れを法身と名づく。  〔『大乗大義章』巻上〕
 法身とは即ち真如の理なり。  〔『仏性論』3 事能品〕
 法身は清浄真如を以て体と為す。真如は即ち諸法の実性にして法に辺際なし。法身も亦爾り。一切法に遍じて処として有らざるはなく、猶ほ虚空の如し。  〔『仏地経論』7〕

これらに言われているとおりである。

 一切衆生の貪欲恚癡諸煩悩の中に如来智・如来眼・如来身あり。  〔『大方等如来蔵経』〕
 如来の法身は遍く一切の諸の衆生の身に在り。  〔『究竟一乗宝性論』3 一切衆生有如来蔵品〕
 住自性仏性に因るが故に法身を説く。  〔『仏性論』4 無変異品〕
 法仏菩提とは、如来蔵性浄涅槃常恒清涼不変等の義なり。  〔『法華経論』下〕

 これらは、仏性如来蔵を法身として、一切衆生もまたみんな此の性を有すという説である。
 また、出纏の如来蔵をもって法身と名づけることを説いている。

 若し無量の煩悩蔵に纏せらるる如来蔵に於いて疑惑せざる者は、無量の煩悩蔵を出づる法身に於いても亦疑惑なからん。  〔『勝鬘経』法身章〕
 妄心則ち滅すれば法身顕現す。  〔『大乗起信論』〕

 また、圓測真諦三蔵の説を出して

 阿摩羅識は真如本覚を性と為す。在纏を如来蔵と名づけ、出纏を法身と名づく。  〔『仁王経疏』中本〕

 これは、無量の菩提蔵に纏縛せらるるのを如来蔵として、纏縛を脱して恒沙不思議の仏法の顕現するのを法身と名づけている。

 法身の体相に関して‥‥

 如来の法身は是れ常波羅蜜、楽波羅蜜、我波羅蜜、浄波羅蜜なり。仏の法身に於いて是の見を作す者は是れを正見と名づく。  〔『勝鬘経』顛倒真実章〕
 法身は即ち是れ浄楽我浄にして永く一切の生老病死を離れ、非白非黒非長非短、非此非彼非学非無学なり。  〔『大般涅槃経』34〕
 惟だ仏の法身のみ是れ常、是れ楽、是れ我、是れ浄波羅蜜なり。  〔『無上依経』上 菩提品〕

また、『勝鬘経』の文の解釈をして

 如来の法身は自性清浄にして、一切の煩悩障智障習気を離れたるを以ての故に名づけて浄と為す、是の故に説きて唯如来の法身のみ是れ浄波羅蜜なりと言ふなり。寂静第一自在我を得るを以ての故に、無我の戯論を離れて究竟寂滅なるが故に名づけて我と為す、是の故に説きて唯如来の法身のみ是れ我波羅蜜なりと言ふなり。意生陰身の因を遠離することを得るを以ての故に名づけて楽と為す、是の故に説きて唯如来の法身のみ是れ楽波羅蜜なりと言ふなり。世間涅槃平等証を以ての故に、故に名づけて常と為す、是の故に説きて唯如来の法身のみ是れ常波羅蜜なりと言ふなり。  〔『究竟一乗宝性論』3〕

と言っている。

発心

発意」ともいう。

 また詳しくは「発菩提心」「発道心」あるいは「発阿耨多羅三藐三菩提心」(この上なき正しい目覚めに向かう心をおこす)ともいう。
 しかし、サンスクリット原典の表現では、その多くは、正しい目覚めに対して心をおこすとあり、漢訳語では本来の意味が伝わらない。

 なお日本語独自の用法として、出家仏道に入ること、またその達成のために遁世(とんせ)隠棲(いんせい)すること、転じて、目的意識を持って何かを思い立つことをも意味するようになった。

 たまたま発心して修行する者ありといへども,また成就すること難(かた)し    〔往生要集 (大文第2)〕
 初発心、時に便わち正覚を成ず。    〔華厳経〕
 家を捨て欲を棄て、而して沙門となり、菩提心を発す。    〔無量寿経 下〕
 正真の道を期求するを、名づけて発心と為す。    〔維摩経慧遠疏〕